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鎌倉時代

阿波国:近江佐々木氏から甲斐小笠原氏への権力移譲と「山奥への隠遁」

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承久の乱(1221年)は、阿波国の統治体制を根本から塗り替える歴史的転換点となりました。この記事では、敗者となった佐々木氏の没落と、新勢力として入国した小笠原氏への権力移譲、そしてその後の歴史への繋がりを詳述します。

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阿波守護・佐々木氏の動向と敗北

承久の乱が勃発した際、阿波・土佐・淡路三カ国の守護を務めていたのは近江源氏の流れを汲む佐々木経高でした。経高の長男で阿波守護代であった佐々木高重は、後鳥羽上皇方に呼応し、阿波国内の兵600人を率いて撫養の港(現・鳴門市)から上洛しました。

しかし、上皇方は鎌倉幕府の大軍に圧倒され、京都で敗走を余儀なくされます。高重は乱の翌年である1222年、逃亡先の紀伊国(和歌山県)で誅殺されました。経高・高重父子の戦死により、阿波における佐々木氏の支配体制は崩壊しました。

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新守護・小笠原長清の入国

乱後、鎌倉幕府は佐々木氏に代わって、東山道軍の大将軍として軍功を挙げた小笠原長清を阿波守護に任じました。

長清は阿波に入国すると、佐々木氏の拠点であった名西郡の鳥坂城(現・石井町)を攻撃しました。当時、城を守っていたのは経高の次男・佐々木高兼でしたが、守備兵もほとんどいない状態の鳥坂城は炎上し、高兼は一族や老臣と共に山奥へと逃れました。

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「百姓」として生き延びた佐々木氏

小笠原氏の追撃は厳しく、追い詰められた高兼は、名西郡の山中にある鬼籠野(おにこの)村に逃げ込みました。高兼はここで、**「一族と家臣たちが百姓となってこの地に住むこと」**を条件に、自ら弓を折り腹を切って自害しました。

現在も神山町鬼籠野地区には「佐々木」の姓が多く残っており、彼らは阿波守護であった佐々木経高の後裔であると伝えられています。また、高兼が弓を折った場所は「弓折」という地名として今にその記憶を留めています。

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勝者・小笠原氏の繁栄と三好氏への系譜

一方、阿波の新主人となった小笠原氏は、美馬郡や三好郡を拠点として勢力を扶植しました。

  • 阿波小笠原氏の土着: 小笠原長清の跡を継いだ長経の子孫たちは阿波に土着し、阿波小笠原氏と呼ばれる勢力となりました。
  • 「天下人」三好家へ: この阿波小笠原氏の庶流から、後に戦国時代の畿内を支配する三好氏が誕生します。三好氏は阿波国三好郡を本拠としたことからその名を冠し、室町時代には阿波守護・細川氏の守護代として実力を蓄え、ついには三好長慶という「戦国最初の天下人」を輩出するに至ったのです。

承久の乱による佐々木氏から小笠原氏へのバトンタッチは、単なる守護職の交代にとどまらず、敗者が山奥で百姓となり、勝者がのちの天下人のルーツとなるという、阿波の地に極めて対照的な二つの物語を残すことになりました。

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