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軍国主義の時代

ABCD包囲網(包囲陣)と対日経済封鎖の歴史:南部仏印進駐から真珠湾攻撃へ

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軍国主義の時代
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1930年代後半から1940年代にかけて、日本に対して行われた経済制裁や経済封鎖のことを「ABCD包囲網」といいます。

近衛文麿内閣が南部仏印進駐を決定したことなどで日本は世界から非難を浴び、アメリカを中心とした国々から厳しい経済封鎖を受けることになりました。この記事では、ABCD各国の意味や包囲網が敷かれた背景、そしてそれがどのように太平洋戦争へと繋がっていったのかをわかりやすく解説します。

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ABCD包囲網(包囲陣)とは?参加国の意味

ABCD包囲網(またはABCD包囲陣)とは、日本に対する石油や屑鉄(くずてつ)などの戦略物資の輸出規制・禁止による経済的な対日包囲網のことです。米・英・中・蘭の4ヶ国が中心となって日本に対して経済制裁を始めました。 「ABCD」とは、以下の4カ国の英語の頭文字をとったものです。

ABCD包囲網の構成国

  • A…America(アメリカ):対日石油輸出の主役であり、経済制裁の中心。
  • B…Britain(イギリス):マレー半島やビルマなどを植民地として保有。
  • C…China(中国):日中戦争の相手国であり、蒋介石政権が抵抗を続けていた。
  • D…Dutch(オランダ):オランダ領東インド(現在のインドネシア)を植民地として保有

ちなみに「ABCD包囲網」という言葉は、当時の日本政府や新聞が国内の危機感を煽るために盛んに用いた呼称であり、この4カ国が明確な協定を結んで組織的に行ったものではありませんでした。

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なぜオランダが含まれているのか?

ヨーロッパの小国であるオランダが含まれている理由は、当時のオランダ領東インド(蘭印)にあります。当時の蘭印は世界有数の石油産地であり、石油やゴムなどの資源獲得を目指す日本にとって非常に重要な交渉相手でした。オランダ本国はドイツに占領され亡命政府となっていましたが、日本が要求した石油の供給を拒絶したため、包囲網の一角となったのです。

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包囲網が形成された背景と原因

ABCD包囲網が形成されたのには、日本のいくつかの軍事的行動が背景にあります。

  • 日中戦争の長期化:1937年に勃発した日中戦争により、中国に権益を持つアメリカやイギリスが反発しました。米英は中国を支援する「援蒋ルート」を構築し、日本と対立を深めます。
  • 日独伊三国同盟の締結:1940年9月、日本がドイツ・イタリアと軍事同盟を結んだことで、すでにドイツと交戦していたイギリスやそれを支援するアメリカは、日本を明確に「敵」と位置づけました。
  • 南部仏印進駐(決定打):1941年7月、近衛文麿は仏領インドシナ南部(現在のベトナム南部)への進駐を進めることを決定し、日本は世界から激しく非難されることになります。これは南方の資源獲得の足場作りが目的でしたが、この行動がアメリカやイギリスを激怒させました。
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段階的な経済制裁と資産凍結・石油全面禁輸

アメリカをはじめとする連合国は、段階的に対日経済封鎖政策を行いました。 まず1939年にアメリカが日米通商航海条約の破棄を通告し、その後、航空機用燃料や屑鉄などの輸出を制限します。 そして1941年7〜8月、日本の南部仏印進駐への対抗措置として、アメリカは在米日本人の資産凍結と、対日石油輸出禁止措置を講じました。この動きにイギリスとオランダも同調し、対日包囲網は完成したのです。

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ABCD包囲網の結果:太平洋戦争への突入

それまで日本は、石油やゴムなどをアメリカからの輸入に依存しており、特に石油の約8割をアメリカに頼っていました。イギリスチャーチル首相が「日本は絶対に必要な石油供給を一気に断たれることになった」と評したように、石油の全面禁輸は日本にとって死活問題でした。当時の日本の石油備蓄量は平時で3年弱、戦時では1年半分しかなく、軍を機能させることすら危ぶまれる瀬戸際に追い詰められました。

ジリ貧に陥ることを恐れた日本はアメリカとの外交交渉を試みますが、1941年11月にアメリカから中国・インドシナからの全面撤退などを要求する「ハル・ノート」を突きつけられ、事実上の最後通牒と受け取った日本側は交渉の進展を断念します。 その結果、日本は開戦を決断し、1941年12月8日の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発することになりました。

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