大日本帝国陸軍は、
統制派と皇道派で内部抗争の最中でありました。
そんな抗争中の最中事件が起きるのであります。
皇道派・真崎甚三郎の教育総監更迭
1935年、皇道派の真崎甚三郎が教育総監を更迭されるという事件が発生するのであります。
当時の陸軍大臣の林銑十郎(石川県出身)によるものでありました。
真崎甚三郎は、
「これは真崎一人の問題手はなく陸軍の人事の根本を破壊するものだから承知できん」
菅原裕「相沢中佐事件の真相」
と、真っ向から反対したのであります。
皇道派は、
林大臣のこうした行動を、
統帥権干犯だと非難したのであります。
永田鉄山暗殺事件(相沢事件)
統制派の領袖・永田鉄山を暗殺する事件が勃発するのであります。
1935年(昭和10年)8月12日、
相沢中佐が永田少将の在室を確認した後、
午前9字45分頃、
永田鉄山を刺殺し、暗殺に至ったのであります。
この事件を受けて、
陸軍省の人事異動が行われました。
この皇道派による相沢中佐事件を受けて、
第1師団軍法会議による公開裁判が行われるのであります。
二・二六事件が発生する
1936年(昭和11年)1月28日の相沢中佐の第1回公判が開始されたのであります。
1936年2月25日には、皇道派・真崎甚三郎大将らの証人喚問が開始するのであります。
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