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戦国時代

熊野大社の本宮と新宮の戦い 室町幕府が調停し、熊野詣も一安心

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熊野三社とは?

  • 本宮
  • 新宮
  • 那智大社

の三社が熊野三社と呼ばれます。

16世紀も熊野詣は盛んで、
この頃は「アリの熊野詣」と呼ばれました。

熊野三社には、
北は青森から南は愛媛まで、
各地の村々に熊野講ができて、
先達せんだつと呼ばれるガイドが
道案内人になって、
熊野講の人たちを、
熊野三山に案内しました。

熊野周辺には、
中下層神官である
御師たちの宿坊が密集していて、
それぞれの先達と御師が
専属契約をしていました。

御師同士の対立も
大変だった。


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新宮の新宮家vs堀内家

新宮では、
神官・衆徒の代表である
上綱じょうごうという七人衆が
新宮を管轄していました。

新宮の代表は、
新宮家が務めていました。

しかし、
新宮家が勢力を
握っていたが、
新宮の中でも、
応仁の乱以降、
堀内家が台頭。

この熊野の新宮の
新宮家と、
堀内家の台頭の対立に
出てきたのが、
本宮家の介入です。

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新宮と本宮の調停

熊野の本宮と新宮に諍いがあり、
度々激しい戦いがありました。

1515年(永正12年)3月21日、
幕府はこのままでは、
熊野三山の滅亡の危機と判断し、
両宮は戦いの主張は
棚に上げて
参詣の道者たちが、
無事に詣でられるようにと、
この戦いの停止を厳命しました。

この確執の理由は
今でも明らかになっていないが、
新関の設置をめぐる紛争だった
のではないか?
と言われている。

今風にいうと高速道路のICをどこに設置するか問題ですね。

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堀内家の戦国大名化

その後、
結局、熊野三山一帯は
堀内家が統治することになり、
織田信長が活躍する頃には、
堀内家は戦国大名といえる
規模になりました。

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