1570年(元亀元年)9月、織田信長はまさに「人生最大の崖っぷち」に立たされていました。
大坂で三好三人衆を叩いている最中に、背後の近江から浅井・朝倉連合軍が南下。さらに本願寺が蜂起し、後に「11年」も続く泥沼の抗争が幕を開けます。
信長がいかにしてこの「詰み」の状態を切り抜けたのか。時間軸に沿って、志賀の陣の全貌をダイジェストします。
志賀の陣と石山合戦の勃発|信長を襲った「元亀の地獄」と11年の抗争の幕開け
1570年9月、織田信長は大坂の野田・福島の陣で三好三人衆を包囲していました。順調に見えた天下布武の歩みは、9月13日の本願寺顕如による「信長排除」の檄文によって一変します。
1. 1570年9月18日〜20日:石山合戦の幕開けと「宇佐山城」の悲劇
信長が大坂で釘付けになっている隙を突き、北から浅井・朝倉連合軍が約3万の兵で近江へ侵攻を開始します。
- 9月18日: 本願寺が明確に信長への敵対を表明。これが、その後11年間にわたる石山合戦のスタートラインとなります。
- 9月20日(宇佐山城の戦い): 信長の重臣・森可成が守る宇佐山城を連合軍が急襲。森可成は激戦の末に討死。信長にとって、京都への入り口である近江の防衛線が崩壊した瞬間でした。
2. 9月24日:信長の「超高速撤退」と坂本の対峙
知らせを受けた信長は、即座に野田・福島の陣を解き、全軍を北上させます。
- 電撃的な帰還: 信長は足利義昭と共に京都へ戻り、さらに坂本(大津市)へと進軍。
- 比叡山への逃げ込み: 信長軍のあまりの進軍速度に驚いた浅井・朝倉連合軍は、正面衝突を避けて比叡山(延暦寺)の山中へ逃げ込みました。
- 志賀の陣の形成: これにより、山上の浅井・朝倉軍と、麓を包囲する織田軍による、3か月以上に及ぶ長い膠着状態(志賀の陣)が始まりました。
3. 膠着する戦線:一向一揆の同時多発
信長が比叡山の下で立ち往生している間、火の手は全国へ広がります。
- 一向一揆の猛威: 近江だけでなく、伊勢長島や東海地方でも一向一揆が蜂起。
- 孤立無援: 北に浅井・朝倉、南に本願寺・三好、そして各地で一揆。信長の勢力圏はズタズタに引き裂かれ、まさに「信長包囲網」が完成した形となりました。
4. 10月30日〜11月13日:朝廷と将軍による「強制終了」
戦況が完全に詰んだ信長は、プライドを捨てて「外交による停戦」を画策します。
- 10月30日: 青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)などの有力な宗教勢力や、朝廷へ働きかけ、和睦の仲介を依頼します。
- 11月13日: 朝廷から正親町天皇の勅命(ちょくめい)が下り、和睦への動きが加速。
- 義昭・信長の連名: 足利義昭の将軍としての権威も最大限に利用し、敵側に「和睦を拒否すれば朝敵になる」という圧力をかけました。
5. 結論:11年戦争の序曲としての「志賀の陣」
12月、ようやく和睦が成立し、浅井・朝倉軍は北近江へと撤退。信長は一命を取り留めました。しかし、この結末は決して「勝利」ではありませんでした。
| 項目 | 内容 |
| 信長の代償 | 森可成、織田信興ら親族・重臣の戦死 |
| 本願寺の執念 | 11年の石山合戦へ突入。信長の生涯をかけた宿敵となる |
| 比叡山の罪 | 浅井・朝倉を匿ったことで、翌年の「焼き討ち」への引き金に |
「志賀の陣」の本質:
それは、武力による制圧が不可能だと悟った信長が、初めて「天皇と将軍の権威」というカードを最大限に使い、命を繋いだサバイバル・レースでした。この時の屈辱が、後の苛烈な宗教弾圧(比叡山・長島)へと繋がっていくのです。
信長がここまで追い詰められたのは、後にも先にもこの時だけかもしれません。
次は、この「和睦」を無視して戦い続けた長島一向一揆。その後の信長の「凄まじい復讐」の過程について気になりますか





コメント