みなさんは、熊本県宇土市にある宇土城跡(西岡台)を訪れたことはありますか? 実はそこには、教科書にも登場する有名な武将や、天皇を守るために戦った一族の熱いドラマが隠されています。今回は、中世から戦国時代にかけて宇土を支配した「宇土氏」と、鳥取県からやってきた「名和(なわ)氏」の歴史をひも解いてみましょう。
宇土氏の始まりと「南朝」への忠誠
宇土氏がいつ、どのように誕生したのか、実ははっきりとしたことはわかっていません。平安時代にはすでに「紀(き)姓」を名乗る一族がいたという記録もありますが、歴史の表舞台に大きく登場するのは鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてです。
当時、日本は「北朝」と「南朝」という2つの朝廷に分かれて争っていました。宇土氏の当主・宇土高俊(うと たかとし)は、南朝を支持する一族として活動しました。1348年には、南朝のリーダーの一人である懐良(かねよし)親王を自分の領地に迎え入れるなど、南朝のために尽くしたことがわかっています。
海のヒーロー・名和長年と「三木一草」
ここで、宇土氏の運命に大きく関わることになるもう一つの主役、名和(なわ)氏を紹介します。 彼らの故郷は、今の鳥取県(伯耆国)です。リーダーの名和長年(なわ ながとし)は、もともと海運業(船を使ったビジネス)で大富豪になった人物だと言われています。
長年の名前を歴史に刻んだのは、後醍醐(ごだいご)天皇との出会いでした。1333年、隠岐島(島根県)に流されていた後醍醐天皇が島を脱出した際、長年は一族を挙げて天皇を迎え入れ、船上山(せんじょうさん)という山に立てこもって鎌倉幕府軍を相手に大勝利を収めたのです。
この功績により、長年は楠木正成らとともに**「三木一草(さんきいっそう)」**と呼ばれる天皇の最側近(超エリート家臣)になりました。長年の家紋である「帆掛け船」は、天皇から贈られた特別なものだと伝えられています。
名和一族、はるばる九州へ
その後、北朝と南朝の戦いが激しくなる中で、名和長年は京都で戦死してしまいます。しかし、彼の一族はその後も南朝のために戦い続けました。長年の孫である名和顕興(あきおき)らは、拠点を失いつつあった1358年ごろ、一族を率いて九州の八代(熊本県)へと移住したのです。
八代に移った名和氏は、九州南朝の大きな勢力となりました。そして、宇土氏(菊池氏の系統)が戦いによって滅びたあと、名和顕忠(あきただ)が空城となった宇土城に入ったことで、**「名和流宇土氏」**としての新しい歴史が始まりました。
戦国時代の終わりと、今の「宇土古城」
名和氏はその後、約80年間にわたって宇土を支配しました。しかし、戦国時代の末期、豊臣秀吉による九州平定が始まると、その波に飲み込まれてしまいます。1588年、秀吉の軍勢に城を明け渡すよう迫られた際、当時の城代がこれを拒否して戦った末に敗れ、名和氏による宇土支配は終わりを迎えました。
その後、この場所(宇土古城)は廃止され、少し離れた場所にキリシタン大名として有名な小西行長が新しい宇土城を築きました。
まとめ ―― 歴史を歩いてみよう
現在、宇土氏や名和氏の拠点だった場所は**「宇土古城跡(西岡台)」**として国の史跡に指定されています。発掘調査によって、当時の建物跡や巨大な堀の跡が見つかっており、公園として整備されています。
一見するとただの丘のように見えるかもしれませんが、そこはかつて、海運で富を築いた一族や、天皇のために命を懸けた武士たちが夢を追いかけた場所なのです。ぜひ一度足を運んで、当時の人々の息吹を感じてみてください。



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