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南北朝時代

南北朝時代の大友氏:激動の時代を生き抜いた一族の軌跡

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鎌倉時代に豊後へ定着した大友氏は、鎌倉幕府の滅亡から南北朝の動乱にかけて、一族の存亡を懸けた戦いに身を投じます。この時代は、家督相続制度の転換や、南朝・北朝の対立に伴う一族の分裂など、大友家にとって内憂外患の連続でした。

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足利尊氏への接近と大友一族の献身

鎌倉幕府末期、大友氏第6代当主・貞宗は、後醍醐天皇の倒幕の綸旨に応じ、少弐氏や菊池氏らとともに鎮西探題(北条英時)を攻め滅ぼしました。建武政権が発足すると、貞宗は博多の息浜を与えられ、強固な経済的基盤を獲得します。しかし、公家中心の建武政権に反発した足利尊氏が挙兵すると、貞宗は尊氏を支持する道を選びました。

尊氏が京都で敗れ九州へ落ち延びてきた際、大友氏は多々良浜の戦いにおいて菊池武敏ら南朝方の軍勢と激突します。大友軍は強風を味方につけた戦術などで菊池軍を打ち破り、尊氏の再起に大きく貢献しました。また、貞宗の次男・貞載は、京都で尊氏に斬りかかった結城親光を身を挺して討ち取り、自らも重傷を負って命を落とすなど、大友一族は足利氏のために多大な犠牲を払いました。

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嫡子単独相続制の導入と玖珠城(切株山)の攻防

この時代、大友氏の家督相続に歴史的な転換がありました。従来の武家社会では一族の子息たちに領地を分ける「分割相続」が一般的でしたが、領地の細分化による弱体化を防ぐため、貞宗は五男の千代松丸(後の第7代当主・氏泰)に家督と所領を一括して譲る「嫡子単独相続制」を開始します。

しかし、この決定は一族内に大きな不満を生みました。長男である貞順は家督を継げなかったことに不満を抱き、南朝方(天皇方)に呼応して天然の要害である玖珠城(切株山)で挙兵します。足利方の命を受けた氏泰や幕府軍は玖珠城を包囲し、8ヶ月にも及ぶ激しい兵糧攻めの末にこれを陥落させました。 一方、家督を継いだ氏泰は尊氏の猶子として迎えられ、「氏」の偏諱と「源姓」を賜りました。室町幕府が開かれると、氏泰は九州における北朝・幕府方の支柱として、豊後・豊前・肥前・日向の守護に任じられました。

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氏時の苦闘と高崎城での徹底抗戦

氏泰には嗣子がいなかったため、弟の氏時が第8代当主となりました。氏時の時代、九州には後醍醐天皇の皇子・懐良親王が征西将軍として下向し、南朝方が勢力を拡大します。さらに足利直冬(直義の養子)の九州入りによって、九州は北朝(探題方)、直冬方、南朝方の三つ巴の混乱状態に陥りました。

氏時は状況に応じて一時的に南朝に降伏したこともありましたが、基本的には北朝方として戦いました。筑後川の合戦(大保原の戦い)で南朝方の菊池武光に敗れるなど苦戦を強いられ、南朝軍が豊後に幾度も侵攻してきますが、氏時は高崎城(大分市)を拠点として猛攻をしのぎ切りました。この高崎城での徹底抗戦が、九州における北朝方の完全崩壊を食い止める大きな要因となりました。その後、九州探題・今川了俊の赴任や大内義弘の援軍によって、北朝方は徐々に優勢を取り戻していきます。

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一族の分裂と「両統迭立(交替相続)」の混乱

氏時の死後、大友家は再び分裂の危機を迎えます。第9代当主となった氏継は南朝方につきましたが、その弟の親世(第10代当主)は北朝方(今川了俊)に味方して兄弟で対立しました。

親世は南朝勢力の掃討に貢献し、多くの恩賞を得て「大友氏中興の祖」と呼ばれ、守護大名としての地位を確立します。しかし、親世が自身の家督を兄・氏継の子である親著に譲ったことで、氏継の系統と親世の系統が交互に家督を継承する「両統迭立(りょうとうてつりつ)」の時代が始まり、家中は混乱に陥ります。

この変則的な継承制は深刻な内紛を招きました。11代親著の長男・孝親が「三角畠の乱」を起こし、さらに12代持直は博多の利権を巡って大内盛見を討ち死にさせた結果、幕府から討伐令を受け、大内氏や幕府軍、さらには一族の親綱(13代)や親隆(14代)らと激しく戦うことになりました。

この「両統迭立」による長きにわたる内紛は、1444年(文安元年)に親世派(親隆)の娘を氏継派(親繁)が妻に迎え、第15代・親繁に家督が一本化されたことでようやく終止符が打たれました。大友氏はこの激動の時代を乗り越え、後の戦国大名化に向けた安定した権力基盤を築いていくことになります。

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