第1次吉田茂内閣の成立の背景
戦後初の総選挙
1946年4月10日、
戦後初の総選挙では、日本自由党が大勝しますが、
単独過半数は獲得できませんでした。
キャスティングボードを握ったのは、日本進歩党と日本社会党でした。
当時、日本進歩党にいた幣原喜重郎は日本進歩党をバックに政権に居座ろうとしましたが、他党からのバッシングにより退陣します。
幣原喜重郎は後継に日本自由党総裁の鳩山一郎を指名しますが、
鳩山一郎はソビエト連邦と関わりが深かったため、GHQの反発に遭い、公職追放されます。
吉田茂への指名
鳩山一郎が公職追放されたあと、吉田茂へ相談にもちかけますが…
断固拒否
数々の説得のあと、
- 金作りは一切やらない
- 閣僚の選考に一切の口出しは無用
- 辞めたくなったらいつでも辞める
この3つの条件ならやるよ
と3条件を示し首相になることを決意します。
鳩山一郎に対して
「君の(公職)追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」
と言いました。
1946年5月16日、
昭和天皇から組閣の大命を受けて内閣を発足。
大日本帝国憲法下で成立した最後の内閣となりました。
第1次吉田茂内閣は大政翼賛会発足前以来の14年ぶりの政党内閣となりました。
第1次吉田茂内閣の政策
日本国憲法の公布と施行
第1次吉田茂内閣のときに日本国憲法が公布・施行しました。
あまり多くの人には知られていないと思います。
1946年、明治天皇の誕生日である11月3日に日本国憲法が公布され、
その半年後である1947年5月3日、日本国憲法が公布されました。
5月3日は憲法記念日だけではなく、
明治天皇のハーフ・アニバーサリーなのです。
覚えておくと得することがあるかもしれませんね。
詳しくは
などを参考にしてみてください。
二・一ゼネスト中止指令
共産党系の労働組合である全日本産業別労働組合のゼネラル・ストライキをを止めたものです。主にはGHQの功績なのかもしれません。
こちらの記事に詳しく書いています。
地方自治法
1947年、地方自治法が公布されます。
- リコール制度
- 地方首長の公選制
地方自治の確立に繋がりました。
第二次農地改革
詳しくは
を参考にしてみてください。
第一次吉田茂内閣の終焉
改正憲法下初の議員選挙
1947年4月20日に衆議院議員総選挙、
1947年4月25日に参議院議員通常選挙、
が行われました。
その結果、衆議院では
- 日本自由党…131議席
- 日本社会党…143議席
- 民主党………124議席
となりました。
参議院では、
- 日本自由党…38議席
- 日本社会党…47議席
- 民主党………28議席
となり、日本社会党が第一党となったことを受け、
第一次吉田茂内閣は総辞職しました。
片山哲に政権を譲りました。
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