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帝都東京時代

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軍国主義の時代

第二次近衛内閣の成立と日独伊三国軍事同盟

ドイツ礼賛の動きが活発化していったのであります。そのような中で大戦不介入の方針を大転換して、ドイツと軍事同盟を結び、フランス領インドシナなど南方に進出し、日本の勢力圏におこうとしたのであります。米内光政内閣の倒閣と第二次近衛内閣の成立陸軍の...
軍国主義の時代

南京政府-汪兆銘による傀儡新国民政府-

近衛文麿の東亜新秩序の建設声明第1時近衛文麿内閣が日中戦争の目的を東亜新秩序の建設にあることを声明に出しました。これが近衛声明として以前お伝えしました。汪兆銘の呼応この東亜新秩序の声明に応じたのが、国民政府の要人が汪兆銘だった。重慶から汪兆...
軍国主義の時代

日本のドイツ礼賛の風潮とドイツ熱の高まり

第二次世界大戦のドイツ勝利?の観測1940年6月、ドイツの電撃戦による軍事的優勢が続くと、日本国内にはイギリスもまもなく屈服して、ドイツの勝利で第二世界大戦は終わるという観測が広まったのであります。東京朝日新聞(昭和15年6月29日)の記事...
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軍国主義の時代

斎藤反軍演説事件

米内光政内閣のときに、粛軍演説を広田弘毅内閣の時に行った斎藤隆夫がまたしても2月、衆議院で軍部を批判した演説です。今度は日中戦争の収拾策を批判した演説です。これを斎藤反軍演説事件といいます。斎藤隆夫は今回は2度目ですから許されざる演説で、議...
軍国主義の時代

大日本帝国と国家総動員法と戦時統制

~1939年までは未だ日本は中国とだけ戦争中です。それでも国民経済は疲れ、国民生活も厳しいものになりました。政府も総力戦のために、国民を統制する法律を次々出します。第1次近衛文麿内閣の統制臨時資金調整法(1937年)戦時における金融統制を行...
軍国主義の時代

阿部信行内閣と「大戦不介入」

阿部信行内閣の組閣平沼騏一郎内閣の総辞職により、阿部信行内閣が組閣されました。ドイツのポーランド侵略平沼騏一郎内閣の辞職の数日後、ヒトラー率いるナチスドイツは、1939年9月1日、ポーランドの侵略を開始します。その後、ポーランドは、ドイツに...
軍国主義の時代

独ソ不可侵条約と平沼騏一郎内閣総辞職「欧州情勢は複雑怪奇」

日独伊三国防共協定を結んでいたのであります。共産党のレッドウェーブから自国を守ろうと三国で確認し合ったのでありましたが……。独ソ不可侵条約の締結1939年8月23日、独ソ不可侵条約が締結されました。第2次ノモンハン事件の最中の出来事でした・...
軍国主義の時代

援蒋ルート

日本は、ドイツ・イタリアら、ファシズムの国と、日独伊三国防共協定を結んでいました。米中関係と援蒋ルートアメリカは中国国民党政府を軍事的に支援していたのであります。中国国民党国民政府の首都・南京は日本軍に占領されていたため、臨時首都・重慶に向...
軍国主義の時代

日米通商航海条約の廃棄を通告

日本とアメリカは今でこそ仲がいいものの、当時は調子に乗った日本に対して、アメリカとイギリスは激怒していたのであります。それを日本は鬼畜米英と罵ったものでありますが、今となっては昔の話。日米関係の悪化アメリカは中国を支援していたのであります。...
軍国主義の時代

三度の近衛声明と近衛三原則

近衛文麿内閣がはじめた日中戦争は長期化し、泥沼化していました。ドイツの駐華大使・トラウトマンの工作活動、通称・トラウトマン和平工作が難航したため打ち切りになったのであります。近衛文麿の三声明第1次近衛声明国民政府を対手とせず中華民国政府との...
軍国主義の時代

国民精神総動員運動と国家総動員法

1937年の日中戦争開戦直後、国内では、戦争を継続させるために国民精神総動員運動こくみんせいしんそうどういんうんどうが発生したのであります。消費節約・貯蓄を奨励し、勤労奉仕・生活改善が説かれ、風俗面も取り締まられたのであります。スローガン尽...
軍国主義の時代

南京事件(南京大虐殺)

日中戦争で増派を決定した第一次近衛文麿内閣は、1937年12月、中華民国の首都・南京を占領したのであります。日本軍は、敗残兵の掃討を行ったのでありますが、この際に多数の中国人非戦闘員や捕虜を殺害したため、国際的に激しい避難を浴びて、却って中...
軍国主義の時代

盧溝橋事件(七七事変)-日中戦争のはじまり-

盧溝橋事件の発生1937年7月7日の晩の北京(当時の北平)の西南近郊にある清朝時代に建てられた盧溝橋ろこうきょうの付近で演習していた日本軍は何者かに発砲されたのであります。これは1901年の北京議定書で駐留を認められていた支那駐屯軍に何者か...
軍国主義の時代

林銑十郎内閣と軍財抱合財政【短命内閣】

1937年2月、林銑十郎内閣が軍部の後押しを受けて成立したのであります。林銑十郎は相沢中佐事件でもお伝えしたように、(予備役の)陸軍大将であります。軍財抱合財政結城豊太郎という大蔵大臣が、軍部と財界の調整を行い、軍財抱合財政が行われました。...
軍国主義の時代

宇垣流産内閣

広田弘毅内閣のつぎに元老・西園寺公望は宇垣一成を推したのであります。しかし、宇垣は軍事的穏健派だったことから、軍部への影響力、つまり、統率力がない陸軍から判断されたのであります。その結果、陸軍は軍部大臣現役武官制を用いて、陸軍大臣を出さなか...
軍国主義の時代

腹切問答-政党と軍部の対立-と広田弘毅内閣の退陣

政党と軍部の対立の背景日本国内では軍備拡張による国際収支の悪化などから今まで政治を担ってきた政党勢力は軍事費拡張に批判的であり、広田内閣に不満を抱いていた。これに対して、高度国防国家の成立をめざす軍部は、国内改革の不徹底が軍事費を増やせない...
軍国主義の時代

西安事件と第二次国共合作

中国共産党の長征1934年、共産党のいわゆる長征により、首都を瑞金から延安への大移動を行いました。八・一宣言その後、コミンテルン中国共産党は1935年8月、抗日民族統一戦線を呼びかける宣言を発表。西安事件中国では、蒋介石の指示により、西安で...
軍国主義の時代

ソ連の国力増強とコミンテルンと日独防共協定

今、国会でも出ているワードコミンテルン。統一教会問題でも勝共連合など、どうして共産党を嫌うのか?みたいな原点をお伝えしたいと思います。ソ連の増強第1次五カ年計画重工業化の推進農業集団化の推進社会主義国家の充実(コミンテルン)ソ連の国際地位の...
軍国主義の時代

広田弘毅内閣と五相会議と「国策の基準」

1936年(昭和11年)8月、首相陸相海相外相蔵相からなる五相会議で国策の基準を決定。中国大陸と南方方面(東南アジアや太平洋諸島)を中心に日本ブロック(円ブロック)化する国策を打ち出した。
軍国主義の時代

軍部大臣現役武官制の復活

広田弘毅内閣は、山本権兵衛内閣の時に定められた軍部大臣武官制を改め、1936年、軍部大臣現役武官制を復活しました。広田弘毅内閣の軍部への従属性を示すものでした。武官制とは?軍人が大臣になることです。現役武官制は現役の軍人が大臣になることです...
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