PR
スポンサーリンク
太古時代

大多羅彦の周防国(山口県)進出と「息長氏」の誕生~古代の巨大山城と名族のルーツ~

スポンサーリンク
この記事は約3分で読めます。
記事内に広告が含まれています。
スポンサーリンク

イザナギが瀬戸内海へ進出し、豊国(福岡県東部)に開墾地を築いた頃、彼に従軍していた「多婆那(たら)国」の人々も新たな新天地へと足を踏み入れました。 その頭領である**大多羅彦(おおたらしひこ)**は、水軍部隊を率いて関門海峡を越え、現在の山口県である「周防国(すおうのくに)」へ上陸します。

この記事では、大多羅彦がいかにして周防国へ進出し、のちに歴史に名を刻む名族「息長氏(おきながし)」となったのか、そして謎多き巨大山城「石城山神籠石」の真実に迫ります。

スポンサーリンク

周防国への上陸と倭人小国群の平定

イザナギの東方進出に水軍として参加していた大多羅彦率いる多婆那国の人々は、関門海峡を抜けたのち、周防灘の北側にあたる周防国佐波(現在の山口県防府市佐波)に上陸し、そこを本拠地としました。

当時の周防国一帯には、北部九州の人口飽和によってあぶれ、新天地を求めて東へとやってきた倭人(わじん)たちの小国群が無数に存在していました。 大多羅彦は、イザナギ軍の強力な支援を背景に、これらの小国を一つ一つ追討・平定し、植民地を広げていったのです。

スポンサーリンク

名族「息長氏」の誕生と名前に込められた意味

周防国一帯を自らの領土とした大多羅彦は、自らの氏族名を**「息長氏(おきながし)」**と名乗るようになります。 この名前を古代韓国語で読み解くと、非常に壮大な意味が込められていました。

  • オオ:大きい
  • :耕す
  • ナガ:中加耶(日本列島を指す)

これらを繋ぎ合わせると、**「大きい開墾地である日本列島にある我が領土」**という意味になります。大多羅彦の強烈な自負が込められた氏族名であり、この息長氏はその後約100年をかけて周防国と長門国(山口県一帯)を統一し、邪馬台国からも一目置かれる天下の名族へと成長していくことになります。

スポンサーリンク

玉祖(たまのおや)神社の真実と消えた王家

現在、山口県防府市大崎にある「玉祖神社」。三種の神器の一つ「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」を作ったとされる玉祖命を祀り、周防国一宮としても知られるこの神社ですが、そのルーツには意外な歴史が隠されています。

実は、この場所こそが大多羅彦王家(息長氏)の宮殿があった場所であり、本来の祭神は大多羅彦王家の祖霊神だったと考えられます。 しかし、4世紀の中頃、息長氏の王家はやむを得ない事情で一度滅亡してしまいます。その後、滅亡した王家を弔うために、祭祀を司る忌部氏の系統から「玉造連(たまつくりむらじ)」の一族が神官として招かれました。それ以来、玉造氏が神官を世襲するようになり、現在の玉祖神社へと繋がっていったのです。

スポンサーリンク

巨大要塞「石城山(いわきさん)神籠石山城」の築城

息長氏(大多羅彦の一族)の強大な勢力を裏付ける証拠として、山口県光市大和町にある**「石城山神籠石(いわきさんこうごいし)山城」**が挙げられます。

標高352メートルの石城山に築かれたこの城は、山腹の七合目付近を全長約2.6キロメートルにわたって列石が取り巻く、巨大な**「朝鮮式山城」**です。水門や望楼の跡も発見されており、その構造は古代朝鮮半島のものと全く同じです。 大陸から渡ってきた弥生人である大多羅彦たちは、未知の土地で自らと一族の身を守るため、これほどまでに巨大で堅牢な防衛施設を築き上げたのです。

スポンサーリンク

まとめ:山口県で花開いた新たな王権

  • 周防国への進出: 大多羅彦はイザナギの支援を受け、山口県一帯の倭人小国群を平定した。
  • 息長氏の誕生: 自らの領土を「息長」と名付け、のちに長門・周防を統一する名族の祖となった。
  • 玉祖神社と宮殿: 防府市の玉祖神社は、もともと大多羅彦王家の宮殿と祖霊神を祀る場所だった。
  • 巨大山城の築造: 一族を守るため、石城山に巨大な朝鮮式山城(石城山神籠石)を築き上げた。

大多羅彦の周防国への進出は、単なる一武将の遠征にとどまらず、のちの日本古代史に多大な影響を与える「息長氏」という強大な勢力を生み出す歴史的転換点だったのです。

Related Posts

コメント

タイトルとURLをコピーしました