播磨源氏の祖・山田入道と西播磨への土着
赤松一族の遠祖は、村上天皇の第七皇子・具平親王の血を引く村上源氏とされています。天永年間(1110〜1113年頃)、ゆえあって播磨国に配流された源季房が土着し、その孫(または曾孫)にあたる山田伊豆守則景(宇野頼景)が建久年間(1190年代)に鎌倉幕府の源頼朝から佐用荘の地頭職を得たことで、一族繁栄の基盤が築かれました。則景は佐用町横坂に高山城を築いたとされ、これは赤松一族の最古級の山城と位置付けられています。
倒幕への原動力:鎌倉末期の関東系所領と在来勢力の抑圧
一族が歴史の表舞台に飛躍するきっかけとなったのは、鎌倉時代末期における赤松円心(則村)らの倒幕挙兵です。近年の研究では、その背景に当時の播磨の所領状況があったことが指摘されています。 鎌倉時代後期、佐用荘をはじめとする西播磨の広大な領域は、北条得宗家や六波羅探題といった関東系勢力(幕府方)の所領となっていました。宇野一族の上月氏などは、六波羅探題の被官(守護代)のさらに被官として現地の実務を担う立場に置かれており、関東勢力からの強い圧迫下にありました。この在来勢力としての長年の抑圧状況こそが、円心を中核とした一族による倒幕挙兵の大きな原動力になっていたと考えられています。
赤松宗家と播磨各地に割拠した一族
則景の末子とされる家範が佐用荘の赤松村の地頭代官に任じられ、「赤松」を称したのが赤松氏の始まりです。円心の代に建武の新政や室町幕府の樹立に多大な貢献をし、幕府の四職(ししき)として播磨・備前・美作の守護を任される大大名へと成長しました。この宗家を支えるべく、一族は各地に分派・土着し、「赤松四天王」と呼ばれる強力な武士団を形成しました。
- 宇野氏(赤松氏の本家筋) 山田則景の兄(または子)である将則(為助)を祖とします。熊見城や長水山城(宍粟市)などを拠点としました。室町期には西播磨の守護代を任され、全盛期には宍粟・神西・但馬など12万石を領する大勢力でした。
- 佐用氏 則景の弟・頼景を祖とし、佐用郡の西山城を拠点としました。元弘の乱(1333年)では、佐用範家が大塔宮護良親王の令旨を受けて円心に従軍し、京都の久我畷の合戦で鎌倉方の名越高家を強弓で討ち取るという大功を挙げています。
- 上月氏・福原氏 則景の子・景盛を祖とします。景盛は建武の争乱で武功を挙げ、建武年間に上月城(大平山城)を築城しました。また、景盛の孫である景行は福原城を拠点として福原氏を称し、上月氏から分派しました。
- 小寺氏 宇野将則の曾孫にあたる頼定の次男・頼季を祖とします。代々姫路城の城代などを務め、のちには御着城を拠点に活躍しました。のちに豊臣秀吉の軍師となる黒田孝高(官兵衛)が仕えた主家(小寺政職)として有名です。
- 別所氏 東播磨を中心に台頭した一族です。季則の次男・頼清、または円心の兄弟・円光の子である敦光を祖とすると伝えられます。室町時代には東播磨の守護代を世襲して三木城に拠りました。また分流として、佐用郡の利神城に拠った佐用別所氏(別所敦範など)も存在しました。
嘉吉の乱と戦国期の下剋上、そして一族の滅亡
室町幕府の中枢で権勢を誇った赤松氏ですが、嘉吉元年(1441年)、赤松満祐が将軍・足利義教を暗殺する「嘉吉の乱」を起こし、幕府軍の討伐を受けて宗家は城山城で滅亡します。この時、佐用氏や上月氏・別所氏らも満祐に殉じ、共に没落の憂き目に遭いました。
その後、長禄の変(1457年)での神璽奪還の功などにより、赤松政則の代に赤松家はお家再興を果たします。しかし戦国時代に入ると宗家の統制力は衰え、代わって東播磨の別所氏や西播磨の宇野氏、小寺氏などが独立した戦国大名として割拠する下剋上の状態となりました。
やがて織田信長の命を受けた羽柴秀吉の播磨平定が始まると、一族は大きな決断を迫られます。三木城に拠る別所長治は「三木の干殺し」と呼ばれる過酷な籠城戦の末に自害し、上月城の赤松政範や福原城の福原則尚らも毛利氏と結んで秀吉に徹底抗戦した末に一族とともに散りました。最後まで抵抗を続けた長水山城の宇野政頼も、秀吉の大軍に包囲されて激戦の末に討ち取られ、中世播磨を席巻した赤松一族は、大名としての歴史に幕を下ろすこととなりました。





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