ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の歴史の中でも、8世紀から9世紀初頭にかけて存続したイサウリア朝(717年~802年)は、帝国の命運を大きく左右する宗教対立と激しい社会変動の時代として広く知られています。
この時代を象徴するのが、イコノクラスム(聖像破壊運動)と呼ばれる壮絶な聖像崇拝論争でした。
この宗教問題は、信仰の領域を超えて、政治・外交・社会全体の混乱や東西キリスト教会の断絶など大きな波紋を広げました。
本記事では、イサウリア朝とイコノクラスムの発端から終結、ローマ教会との関係悪化やスラブ世界の成立まで、世界史全体への影響も含めてわかりやすく解説します。
ビザンツ帝国全体について知りたい方は、ビザンツ帝国の概観~ビザンツまとめ・ビザンツ帝国の場所は?も参考にしてください。
イサウリア朝初期:帝国の危機と宗教改革の始動
開祖レオン3世(レオン5世ではない)の登場とイコノクラスムの発端
8世紀初頭、ビザンツ帝国はウマイヤ朝イスラム勢力の激しい攻撃を受け、滅亡の瀬戸際にありました。
そんな危機的状況で帝位についたのが、イサウリア朝の開祖レオン3世(在位:717年~741年)です。
レオン3世は軍事指導者としてイスラム軍を退け、首都コンスタンティノープルを救います。
その上で、帝国の再建と皇帝権強化をめざす中、聖像崇拝の禁止令(726年)を発布したことで大きな歴史の転機を迎えました。

なぜ聖像崇拝禁止、すなわちイコノクラスムに踏み切ったのか——その背景には複数の要因が指摘されています。
- イスラム教の思想的影響:偶像崇拝を否定するイスラム教の価値観が、国境を超えて波及した可能性
- 神の怒りへの意識:度重なる軍事的敗北や災厄・疫病は「神に背いたことへの罰」と信じられ、宗教改革の動機に
- 皇帝権力の強化:強大化した修道院・教会勢力の制御、および皇帝が教会も支配する「皇帝教皇主義」への移行
この政策が、以降100年以上に及ぶ歴史的大論争イコノクラスム(聖像破壊運動)の始まりでした。
語源はギリシャ語「エイコーン(像)」+「クラオー(壊す)」。イエスや聖母・聖人などの絵=イコンを崇拝することが、旧約聖書の「偶像崇拝の禁止」に反するのでは?という神学議論が発端です。
宗教混乱の激化と東西キリスト教会分裂の序章
コンスタンティノス5世による徹底弾圧
レオン3世の宗教政策をさらに徹底・過激化させたのが息子のコンスタンティノス5世(在位:741年〜775年)です。
- 聖像の破壊・撤去の徹底
- 修道院の財産没収や修道士への迫害
- 聖像崇拝支持者の追放・処罰
これらにより、ビザンツ帝国内部は聖像派と反対派の分断・対立がますます深刻化しました。
同時に、修道院や知識人、都市民を中心とする各地の反発も激増し、社会的混乱と不安が拡大します。
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ローマ教皇とビザンツ皇帝の断絶
西ヨーロッパのローマ教皇庁では、民衆への布教や教育の観点からイコン(聖像)は不可欠な信仰具でした。
そのため、ビザンツ皇帝の聖像崇拝禁止策は、ローマ教皇(と西方キリスト教世界)の強い反発を招きます。
ローマ教皇はビザンツと距離を置き、勢いを増していた西欧のフランク王国と政治的協調を進めました。
イコノクラスムを契機に、東西キリスト教会の「修復困難な分裂」が加速したとみなされています。
イコノクラスム終息とイサウリア朝の終焉
女帝イレーネによる聖像崇拝の復活
長期にわたる宗教的動揺もついに転機を迎えます。
コンスタンティノス5世の孫の后から皇帝に上りつめた女帝イレーネ(在位:797年~802年)は、熱心な聖像崇拝支持派でした。
イレーネは787年に第2ニカイア公会議を主催し、「聖像への尊敬(崇敬)は認めるが、神と等しく礼拝することまでは許されない」という、より折衷的な聖像容認方針を打ち出します。
聖像崇拝の復活が正式に宣言され、第一次イコノクラスムは一応の終息を迎えました(ただし後に一時的な再燃期もあり)。
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ローマとの修復——しかし溝は埋まらず
女帝イレーネの聖像政策によってローマ教会との関係修復が図られたものの、時すでに遅しでした。
ローマ教皇はフランク王カール(カール大帝)を800年に「ローマ皇帝」に戴冠し、ビザンツ皇帝以外に西欧の皇帝を立てるという歴史的転換を実現します。
このことは、教皇がビザンツ帝国の宗主権を認めない意思を明確に示し、東西教会の完全な分裂へとつながったと考えられています。
スラブ世界への波及とビザンツ文化の伝播
イサウリア朝時代、帝国北辺ではスラブ人が南下し、第一次ブルガリア帝国の勃興やセルビア諸侯国の形成など新たな勢力が台頭しました。
- 軍事的にはビザンツとの衝突
- 同時にキリスト教(「正教会」)やギリシャ文化・キリル文字など文明的な影響の拡大
ビザンツ帝国は周辺に対し、単なる征服ではなく文化・宗教をも伝播させる力を維持し、後のロシア正教圏や東欧キリスト教世界成立に決定的な役割を果たしました。
この時期の相互交流や影響については、地域ごとに独自発展的側面を重視する解釈もあります。
まとめ|イサウリア朝とイコノクラスムの歴史的意義
イサウリア朝とイコノクラスムは、帝国史における大きな転換点でした。
- レオン3世による強力な宗教・政治改革と聖像崇拝の禁止
- コンスタンティノス5世の徹底的な弾圧による社会的混乱
- ローマ教皇との決裂とキリスト教世界における「東西分裂」の始動
- 女帝イレーネによる聖像崇拝の復活と社会の一時的安定
- 北方・西方へのビザンツ文化の波及(スラブ人・ブルガリア・セルビアなど)
宗教論争が帝国の政治と社会を根底から揺るがし、ビザンツ帝国が
独自の「東欧・ギリシャ世界」として歩み始めた大きな分岐点が、このイサウリア朝の時代だった——
と位置づけられるでしょう。
「開祖レオン5世」と表記されることがありますが、イサウリア朝の開祖は正しくはレオン3世です。
レオン5世は9世紀の一時的皇帝で、後のイコノクラスム再燃期に関わる人物です。
記事内の時代区分や政策の発端は、レオン3世期を指します。
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・詳説世界史研究(木下康彦・吉田寅・木村靖二 編、山川出版社)
・ヨーロッパの歴史―欧州共通教科書(木村尚三郎 監訳)
・西アジア史〈1〉アラブ/〈2〉イラン・トルコ(新版 世界各国史、山川出版社)
その他の参考文献はこちらのページにまとめています。







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