若者の軍人の間では、
- 軍部の統制派(主にベテラン勢)への不満
- 東北地方の凶作を放置などの政治への不信と不満
などなど、恨みが塵も積もれば山となるで、
起こった事件と言えるでありましょう。
やはり、人に恨まれるようなことをしたおりましたら、
小さいうちに和解や解消する必要があると
認識させられる事件であります。
それでは見ていくであります。
二・二六事件の背景
大日本帝国陸軍の統制派と皇道派の内部抗争-
でも、お伝えしましたが、
陸軍の内部のゴタゴタも一因であります。
統制派の発案で、
皇道派の中心勢力でありました
皇道派師団である第一師団の満州派遣が決定するなど
統制派への不満がますます決定するのでありました。
さらに、明治時代以降相次ぐ、東北地方への自然災害は放置で、
朝鮮開発や台湾開発、満州への投資など、
東北地方を棄民するような政策を取りました。
実際、かけられた金額も東北地方へかけられたお金より、
満州や朝鮮、台湾に投資された金額も多かったのです。
それは、
薩長を中心とする勢力が政権を握っていたことや、
東北地方が鬼門の方角であり、
風水的にもあまり発展させない方がいいと
勘違いされて放棄されました。
実際は、鬼門の方角は、
台所を設置してもいい方角だったので、
戦後は農業地帯として発展させることになりました。
相沢中佐事件-皇道派・相沢三郎が統制派・永田鉄山を刺殺暗殺した事件-
でも、皇道派・相沢三郎が結局、
裁判中でもある真っ只中でした。
二・二六事件
皇道派の第一師団が派遣する前、
そんな東北地方が飢饉で飢える
冬の雪の降る寒い日であります
1936年2月26日未明
皇道派の歩兵第三連隊第六中隊が中心として、
歩兵第三連隊は当然のこと、
- 歩兵第一連隊
- 近衛歩兵第三連隊
なども加わり、青年将校の人数は約1400人にも膨れ上がりました。
首相官邸や警視庁を占拠し、
その周辺の土地も占領しました。
二・二六事件の要人暗殺
- 岡田啓介首相の義弟・松尾伝蔵
- 内大臣・斎藤実
- 大蔵大臣・高橋是清
- 教育総監&陸軍大将・渡辺錠太郎
らが暗殺されました。
岡田啓介自身は、弟と勘違いされて難を逃れました。
弟は影武者としてその役割を果たしたのです。
当時は写真や映像などはほとんど知られておらず、
誰が誰だかわかっていなかったんです。
二・二六事件の終わり
二・二六事件は、結局、大日本帝国軍本体が出動することになり、
1936年2月29日に鎮圧されました。
年号で困ったときには、
うるう年だったことを思い出しましょうね。
結局、反乱軍とされた彼らは
自決したり、裁判で処されたりすることとなる。
二・二六事件とその後
結局、軍事政権の力はますます増すことになります。
これは、平安時代の貴族が武士に力を取られるのと似ていますね。
結局、軍事力こそ力になるのでした。
また、岡田啓介自体は、無傷で生存するのでありますが、
結局、責任をとり岡田啓介内閣は総辞職するのであります。
陸軍内部は皇道派はついに力を無くし、
統制派へと力が完全に移ることとなるのであります。
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