前回
嘉永五年 「阿蘭陀別段風説書」
老中・阿部正弘のもとにオランダの商館長からの報告で、
アメリカが日本へ使節を送ると連絡を受けた。
その目的は交易のため、日本の開国であった。
指揮官ペリーは常備軍ももっていた。
このときの老中・阿部正弘は、
鎖国を守ることを考えていた。
ペリー来航
ビッドル没後のアメリカ東インド艦隊司令長官の後継者ペリー(Perry/1794~1858)はフィルモア米大統領(Fillmore/1800~1874)の国書を預かり、任務を遂行する。
ペリー初来日
1853年、ペリーが通称・黒船と呼ばれる蒸気軍艦4隻で大統領の国書を携え浦賀沖に来航。ペリーが乗艦していたのがサスケハナ号で、久里浜に上陸を果たす。ペリーその時のことを「日本遠征記」に記している。遠征という表現はまるで日本を征服したがっていたかのようだ。
ペクサン砲
ペクサン砲の特徴は的に対して水平に発射できること。命中率が高く、破壊力も大きい。日本の大砲の放射状に打つのとは雲泥の差である。
その時の将軍は徳川家定である。
オランダから報告があったが、幕府財政は火の車で、軍備力増強もできず、何もせず待つことしかできなかった。そのためか追い返して攘夷することはできなかった。
「合衆国書翰和解」
その後、阿部正弘は浦賀のとなり、久里浜で国書を受け取る。
- 船舶の補給基地として日本の港を開くこと
- 交易を開始すること。
アメリカの一方的な開国要求であった。
幕府は翌年に回答することにして時間稼ぎをするとともに、
ペリーをアメリカへ一旦返す。
ペリーの野望
ペリーは「アメリカ政府と国民の期待に応えるため、私は武力行使に尻込むことはしない」と応えた。
阿部正弘と徳川斉昭の対談
阿部正弘は徳川斉昭に「打ち払って敗れれば、ご国体を汚し、取り戻しのつかないことになる。」と述べた。
当初は5年でも10年でも回答を延ばす予定だった。
ペリーの二度目の来日
将軍の死を口実に
老中阿部正弘は回答延期を模索するものの、ペリーは拒否。
ペリーは軍艦7隻を率いて再度、浦賀沖に来航する。
江戸湾の測量を行うといった武力的圧力を加えつつ
条約の締結を無理くり迫った。
日米和親条約(神奈川条約)締結
背景
幕府は開港を認める変わりに、通商拒否を提案する。ペリーは妥協し、通商についての要求は取り下げた。日米は3月3日、日米和親条約を結んだ。ちなみにこの条約は神奈川宿の近くで交渉と調印が行われたので、この条約を神奈川条約ともいう。
内容
日米和親条約
12条からなる。
- アメリカ船が必要とする燃料や食糧などを供給すること
- 遭難船や乗組員を救助すること
- 下田・函館の2港を開き、領事の駐在を認めること
- アメリカに一方的な最恵国待遇(アメリカ以外の一番緩い条件の国があるならば同じ水準に自動的にすること)を与えること。
解説
「開港の条約」で、通商に関する条約は取り下げられた。通商も通信も取り下げられた。ペリーは通商が得られず、大失態を演じた。
「大日本古文書 幕末外国関係文書」
日米和親条約
第一ヶ条 一日本と合衆国とハ、其人民永世不朽の和親を取結ひ、場所・人柄の差別これ無き事。
第二ヶ条 一伊豆下田・松前地函館の両港ハ、日本政府二於て、亜墨利加船薪水・食料・石炭欠乏の品を、日本に調ひ候丈ハ給し候為メ、渡米の儀差し免し候。尤下田港は約条書面調印之上、即時にも相開き函館は来年三月より相始候事。
対ロシア
プチャーチン来航
ペリー初来日と同年1853年にロシア使節プチャーチン(Putyatin/1803~1883)が長崎に来日。開国と国境の画定を幕府へ要求した。
日露和親条約
概説
1854年、下田で日露和親条約を結ぶこととなる。その全権はプチャーチンと川路聖謨(かわじ としあきら)であった。
内容
下田・函館の他に長崎も開港することを定め、国境については千島列島の択捉島以南を日本領、得撫島(ウルップー)以北をロシア領とした。樺太は両国人雑居の地として境界を定めないこととした。
まとめ
その後、アメリカは最恵国待遇のために長崎をアメリカにも開き、イギリス・オランダとも類似の内容の条約を結び、200年以上にわたる鎖国政策に終止符を打って開国することとなった。
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