隋の中国再統一
6世紀末、北周の外戚だった楊堅が実権を握り、
581年北周を倒して隋を建国しました。
都を、西周・秦・漢の都が置かれた地に
新しい都大興城を建設し文帝と称しました。
新しい都大興城を建設し文帝と称しました。
さらに589年、南朝の陳を滅ぼし中国を久々に再統一しました。
政治制度
土地制度は北魏の均田制を継承したが、奴婢・耕牛への給田が廃止されたことにより
貴族の大土地所有が制限され、皇帝の権力が強大化した。
租庸調制
税制は租庸調制
- 租・・・粟2石など
- 庸・・・年間20日ほどの労働
- 調・・・絹・綿・麻など
府兵制
兵制は西魏の府兵制を継承。
府兵制・・・租庸調の税を免除する代わりに徴兵する制度。
九品中正を廃止して、
貴族の高級官僚独占と中央集権化を目指す目的で始まりました。
官吏登用法である選挙(のちに科挙)は598年に楊堅が創始しました。
官吏を志望するものに道を平等に与えることとなった。
隋の時代にモンゴル高原を支配していた
突厥(とっけつ)という遊牧民は6世紀中頃は大国家を築いたが、
その後、分裂し、西突厥は唐に、東突厥はウイグルに滅ぼされた。
父を殺して即位した中国史上最悪の不人気皇帝
煬帝(煬の意味は親殺し)は皇太子だった多くの人を殺して即位し、
杭州~現・北京に至る大運河を建設し、
605年黄河~淮河間が完成。
さらに長城を修復するなど土木工事を行い、
多くの犠牲者を出しました。
3度に渡る高句麗遠征の失敗に際して、
農民、豪族の反乱が起こり、家臣に殺され、
隋は滅亡した。
コメント