現在の農業も肥料高・種苗高・資材高・燃油高のカルテットな苦しみと、
野菜の単価安という五重の苦しみが農業界に訪れております。
そういう訳で、戦前の農業の苦しみである
農村恐慌からの農村救済請願運動について見ていきましょう。
農村恐慌
1929年、世界恐慌が発生しました。
世界恐慌のあおりを受けて、
日本は第一次世界大戦後、自国が戦争に巻き込まれなかったアメリカと並ぶ輸出国として発展していきました。しかし、世界恐慌で輸出相手が居なくなって、深刻な不況になりました。
それが昭和恐慌です。
当時日本は軽工業国として発展しており、主な輸出品は生糸や絹糸などの工業製品でした。
桑の葉や蚕を育てていた農家は特に深刻な影響を受けて、
満州やハワイやブラジルやアメリカへ移住するなど様々な苦境に立たされました。
また、農村部では娘売りや子売りなどで生活費を稼いだりすることもありました。
肥料にするはずのイワシや米ぬかを、毎日食べる生活が日常となっていきました。
農村財政も極端に貧しい状態に陥っていきました。
農村恐慌に関連する番組
橋田壽賀子脚本の「放送80周年記念ドラマ ハルとナツ~届かなかった手紙」は
森光子と野際陽子のW主演でNHKで放送されました。
この文章を読んでいる未来の子どもたちは知らない人たちかもしれませんね。
でも、知っておいた方がいい話なので、1度や2度、繰り返し見たほうがいい番組です。
農村救済請願運動
斎藤実内閣のとき、農業恐慌で打撃を受けた農村から助けを求める声が政府にも少しだけ声が届きはじめました。農村部では逃散や離農が相次ぎ、農村部は荒廃していました。
こうした声を受けて、右翼の農本主義者によって、農村救済請願運動が大日本帝国全土で展開された。農村救済請願運動は第62回大日本帝国議会(1932年6月)に向けての請願署名活動として、全国展開されました。
- 農家の借金の3年間の据え置き
- 肥料資金1反あたり1円補助
- 満蒙移住費5000万円補助
の要求をしました。
農村救済請願運動を主導した右翼の農本主義者
今の農業協同組合は、農本主義者によって戦前の食料供給のために作られた組織であることは周知の事実だと思いますが、この体制が21世紀前半でも続いています。
長野朗
農村救済請願運動を主導したのは、長野朗です。
長野朗は福岡県出身の国家主義者で国粋主義者で農本主義者です。
第二次世界大戦後で自治農民協議会も組織します。
権藤成卿
農本主義者の権堂成卿が長野朗に思想的な影響を与えました。
1932年自治農民協議会を結成したメンバーの1人です。
権堂成卿も福岡県出身です。
まとめ
農村救済請願運動は内務省と農林省の主導で農山漁村更生運動へと発展していきます。
農林省
当時は農林水産省ではなく、農林省です。
水産よりも今で言う林野庁の方が力が大きかったです。
農山漁村更生運動については次回以降、まとめていきます。
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