1871年の廃藩置県後明治政府は開明的な政策を次々と打ち出し専制的な性格も次第に強まり特に1873年の征韓論破裂後は専制的な傾向を強化しました。
明治六年の政変
1873年に岩倉遣外使節団が帰国して内地優先を唱えていきますそれに対してセーフを預かっていた人々は征韓論を唱えていました政府の急激な近代化政策に対する不満を改正によってそらそうという意図があったようですしかし結局征韓論が敗れまして板垣退助江藤新平西郷隆盛等が次々と下野していきます。
この征韓派の下野を明治六年の政変と言います。
自由民権運動
民撰議院設立建白書
1874年1月、征韓論で下野した前参議の
- 板垣退助
- 後藤象二郎
- 江藤新平
- 福島種臣
らは、愛国公党という最初の政治結社を作り、民撰議院設立建白書を太政官左院に提出し国会開設を要求しました。
政府はこれを時期尚早と唱えて拒否しましたがこの建白は、日新真事誌という新聞にも公表され世論を刺激し新聞雑誌で活発な論争が展開されるとともに民撰議院設立を要望する声を喚起しました。
民権運動と政社の結社
各地に民権運動の結社が作られていきました。
高知には板垣退助や片岡健吉らが結成した立志舎、徳島には自助社、福島には石陽社、東京には嚶鳴社が結社されます。
このように自由民権運動を進める拠点となった組織を政社と言います。
愛国社
1875年2月には大阪に愛国者を設立しました。これは全国各地の正車を代表する全国組織として作られたものです
大阪会議
1875年には大阪会議が開かれましたこれは大久保利通木戸孝允板垣退助の三者会談ですここで政府も政府なりにゆっくりと立憲国家への道を模索するという約束を出しましたこれを全然立憲政体樹立の詔と言いますそして元老院大審院設置と地方官会議の開催を決めました元老院は立法機関です。
一方民権運動に対する弾圧は厳しさを加えました。1875年6月にざんぽう律新聞紙条例を公布し続いて9月に出版条例を改正して正論を取り締まりました。
立志社建白
士族の不平は高まる中、以前紹介した不平士族の反乱でも政府を倒すことができず、言論と結社による政府への市民の圧力が高まります。
1877年立志社から政府に対して建白書が出されました。
これを立志社建白と言います。当時の立志舎の代表者は片岡健吉です。
これは却下されてしまいますがこれ行こう民権運動の目標が明確に定まって、
国会開設
地租改正
条約改正
の3点絞った運動として展開していきました。
国会期成同盟
1880年愛国者は第4回大会で名前を国会期成同盟と改めました。民権運動はむしろ国会開設請願運動として進展します。
集会条例
1880年政府は国会開設請願運動を弾圧するために集会条例で弾圧します。
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