大日本帝国では、日中戦争が長引くと、国民生活は大幅な切り詰めが求められました。
大日本帝国の臣民たちは、今まで負け知らずの日本の対外戦争で調子に乗っていたこともありました。今まで日清戦争、義和団事件、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵と、負け知らずの戦いを続けており、勝てばこの暮らしは楽になるだろうと人々は鼻高く夢を見ていました。
第二次世界大戦の日本の国策標語
国民精神総動員運動で国威掲揚のためのスローガンが募集され、以下のスローガンが採用されました。
- ぜいたくは敵だ!
- 日本人ならぜいたくは出来ない筈だ!
- 欲しがりません勝つまでは!
- 石油の一滴、血の一滴
- 2+2=80
- パーマネントはやめましょう
- 国民精神総動員
- 進め一億火の玉だ
- 遂げよ聖戦、興せよ東亜
- 聖戦だ 己殺して 国生かせ
- 任務は重く、命は軽く
- 金は政府へ!身は大君へ!
- 国のためなら愛児も金も
- 日の丸持つ手に金持つな
- 立派な戦死と笑顔の老母
- 空へこの子も捧げよう
- 子も馬も捧げて次は鉄と銅
- 酒飲みは 瑞穂の国の 寄生虫
- 節米は 毎日できる ご奉公
- 飾る体に 汚れる心
- 家庭は小さな翼賛会
- 護る軍機は 妻子も他人
- 買い溜めに 行くな行かすな 隣組
- 米英を 消して明るい 世界地図
- 日の丸で 埋めよ ロンドン・ニューヨーク
- 人並みと 思う心が 奢りの心
- 権利は捨てても義務は捨てるな
- 黙って働き 笑って納税
などのスローガンが繰り広げられ、戦争を煽る言葉が列挙されました。
切符制・配給制・供出制
1940年4月、米や味噌、砂糖など日用必需品10品目に対して切符制が導入されました。
1942年2月には、1995年まで続いた悪法の食糧管理法(略称・食管法)も導入されました。主食は国の管理下に置かれることになりました。米に関してはGATTウルグアイ・ラウンドにおいての米市場開放で開放されましたが、小麦や大豆は食糧管理法の後継法の食糧法により、現在でも小麦や大豆の価格は国が決定する社会主義システムが導入されました。
食料と食糧のちがい
食料は食べ物全般を指すのに対して、食糧は主に主食の米や小麦、大豆などを指します。
切符制
ガソリンや砂糖、マッチ、衣料などは切符制が敷かれました。切符が渡されてそれと交換するシステムです。一人当たり都市部は100点、郡部は80点の持ち点が与えられるポイント制で背広は50点、ワイシャツ12点などが定められました。
全然ポイントが足りず、国民は苦しい生活を送るはめになりました。
戦争凶の政治家を選んだのは当時の国民であり、国民も戦争をすれば生活は楽になると思っていたので、自業自得感も未来人ですがあると思います。
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/bunsho/file/611894.pdf
配給制
米に関しては配給制が導入されました。配られるんですけど、全然足りません。
供出制
大日本帝国政府が農村から米を強制的に買い上げる制度です。
世界恐慌の影響で農村は荒廃していましたが、この供出制で若干、農村は珍しく潤いました。農村は当時はまだ過疎化とは縁遠く、まさに貧乏子だくさん状態で、子どもをお妾さんや丁稚奉公に出すなどして生計を立てる家庭も少なくありませんでした。
今でこそ、親の資格云々言われますが、当時には子どもの人権という概念が日本には存在しておらず、子どもは父親の所有物として扱われていました。家庭内暴力は当たり前の時代です。
そんな中、政府は米を買ってくれるので、田畑は耕作放棄地になることなく、仕事に精が入って生産されることになりました。需要に対して供給が足りていなかったのです。
米が供給過多になるのは、1960年後までかかります。今でこそ残す米ですが、当時は「一粒の米に七人の神様がいる」として、米一粒残さず食べるように指導されていました。
事実、困窮する生活では、残さず食べる必要がありました。
コメント