秦王の政のとき、法家の李斯を起用し、前221年中国を統一。
「王」にかえて「皇帝」(煌々たる上帝、光り輝く絶対神)の称号を創始。
すなわち秦の始皇帝である。
都は引き続き咸陽(かんよう)
内政
- 中央官制では丞相(じょうしょう)(行政)太尉(たいい)(軍事)御史大夫(ぎょしたいふ)(監察)をおいてそれぞれ権力を分立させた。
- 郡県制を全国に実施し、全国を36郡(のち48郡)にわけた。
- 郡には守・尉・監、その下の県には令(行政)・尉(軍事)をおき、皇帝が直接任命した官吏を長官として派遣。
- 度量衡(長さ容積重さの単位)・車軸の統一、貨幣を半両銭に統一、文字を小篆に統一
- 前213年,焚書(ふんしょ)・・・農業・占い・技術書・医学の本以外を焼却。
- 前212年,坑儒(こうじゅ)・・・周の政治を理想とする咸陽に住む約460名の儒学者を生き埋めに・・・。
→焚書坑儒で言論統制
対外政策
- 匈奴(きょうど)(北方の遊牧民)の勢力が強大に!→将軍蒙恬(もうてん)を派遣し、匈奴をオルドスからゴビへ撤退させた。
- 燕・趙の長城を修復・連結させ、約1万里(約4000km)の万里の長城を完成。
- 南方に遠征を行い南海(現在の広州)・象(しょう)・桂林の3郡をおいた。
陳勝・呉広の乱
壮大な宮殿(阿房宮)や陵墓(麗山陵)、長城の造営や度重なる遠征による負担で民衆の生活を苦しめ、
始皇帝が病死(水銀中毒?)し、2代皇帝胡亥が即位すると、前209年、陳勝・呉広の乱がおこり、
前206年秦は滅亡した。秦の中国統一からわずか15年のことだった。
陳勝の「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」や「王侯将相いずくんぞ種あらんや」のことばは有名である。
コメント