版籍奉還は1869年(明治2年)7月に政府が布告した行政改革のことです。
政策の具体的な内容と、版籍奉還を日本に導入した人物についてみていきましょう。
版籍奉還とは?
大名が持っている土地と人民の支配権を天皇に返させる政策です。
版籍とは?
- 版・・・版図(はんと/支配領域のこと。土地のことです。)
- 籍・・・戸籍(人民のこと)
版籍奉還の背景
徳川幕府の崩壊
戊辰戦争によって、徳川幕府は完全に崩壊しましたが、幕藩体制は維持されたままでした。しかし、すでに将軍は制度上もういません。
さらに、政府の行政的リーダーシップ不足で、諸藩は借金まみれで政権運営にも困っていました。大名のブランドは落ちており、各地で一揆や財政難に苦しんでいました。
領地や人民は、徳川幕府によって与えられたものという裏付けが無くなった大名にとって、版籍奉還は天皇が将軍の代わりになるだけで、自分の地位が保証されるため渡りに舟の政策でした。
いきすぎた地方分権
大政奉還によって、日本の政権運営が、将軍から天皇へ返還されましたが、徳川家の領地も幕藩体制の藩の体制も残っていたままで、特に地方では支配者が変わらないので、江戸時代と何も変わらないままでした。
明治政府はこのままでは、地方部での政治の実権を握られないと考え、
大名の土地と人民を本来の所有者である天皇にお返しするよう大名に求めたものです。
版籍奉還では大名という枠組みは残したまま、天皇が大名に土地と人民をレンタルするという形をとります。
版籍奉還の思想
王土王民論
すべての土地とすべての民は国王のものだ!
という考え方。
大化の改新の公地公民制もその考え方に基づきます。
版籍奉還の中心人物
薩摩藩出身の大久保利通と、
長州藩出身の木戸孝允でした。
版籍奉還の流れ
西欧風の地方政治を行うために、廃藩置県を企画する前段階として、まず、版籍奉還を行うことになりました。
流れとしては、薩長土肥の各藩主にまずは全国各地の諸藩のお手本として、天皇に返還する姿を見せれば、他の藩も追随するのではないか?といった思惑がありました。
版籍奉還の建白書(薩長土肥の返還)
大久保利通と木戸孝允の強い勧めによって、
薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩の四藩が連名で、
天皇に版籍奉還の建白書を提出しました。
その後、他藩に先んじて版籍奉還しました。
各藩の説得者
- 薩摩藩(藩主・島津忠義)…大久保利通
- 長州藩(藩主・毛利敬親)…木戸孝允
- 土佐藩(藩主・山内豊範)…板垣退助
- 肥前藩(藩主・鍋島直大)…大隈重信
版籍奉還の建白書の内容
「願くは朝廷其宜に処し,其与ふ可きは之を与へ,其奪ふ可きは之を奪ひ,凡列藩の封土更に宜しく詔命を下し,これを改め定むべし。」
版籍奉還の建白書
他藩の申し出とその理由
薩長土肥の4藩が手本を見せると、
ほかの藩主も奉還を申し出ました。
申し出の理由
なぜ自分の土地と民を手放したのでしょうか?
それには3つの原因があります。
①借金の肩代わり
ほとんどの藩が、幕末に財政が悪化していました。
そこで、新政府が借金を肩代わりしてくれるものと思い、
奉還を申し入れに至ったのでした。
②知藩事
藩主は肩書を知藩事と改めただけで、
依然として、藩政を継続していました。
③家禄の継続
藩主は、知藩事と名を変えたあとも、
華族という称号を受け取り、
従来通り、家禄も従来通り10分の1を受け取ります。
家禄の意味
家禄とは、元々の俸禄の代わりに、
版籍奉還のとき、華族・士族・卒への政府が与えることになった代々続く禄米のことです。
米で支給されて、
もとの禄米より大幅に減りました。
版籍奉還の目的
江戸時代は地方分権の時代でした。各地に自治権があり、立法権もあり、まるで違う国がゆるやかな連合体を持っているかのようなものが徳川幕府でした。明治政府は中央集権体制をつくるために、廃藩置県を行うための前段階として版籍奉還を行ったのです。
版籍奉還の結果
版籍奉還の結果、天皇のもとに土地と人民が集まりましたが、まだ、藩という壁も残っていました。大名も結果的に藩知事という形で残ったためです。日本という国の概念もまだ普及していませんでした。ここから中央集権体制にもっていくためには、廃藩置県を行う必要性もありました。
まとめ
版籍奉還では中央集権にはなりませんでした。
次の廃藩置県に続きます。
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