隋による中国統一
くわしくは隋を参照。
北朝から興った隋が南朝の陳を滅ぼして、およそ400年ぶりに統一王朝が成立した。
隋は律令を整備するとともに、周辺諸国への圧力を強め、589年以降幾度となく高句麗へと遠征軍を派遣した。
朝鮮3国や倭国はこの世界帝国の強圧に対する対策を迫られた。
崇峻天皇暗殺事件
蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺させた事件です。
推古天皇の即位
蘇我馬子や諸豪族は王位継承の危機に際して、欽明天皇と蘇我堅塩媛(そが の きたしひめ)との間に生まれ、欽明天皇と石姫(いしひめ)の間に生まれた敏達天皇の后となっていた額田部王女を、初めての女性天皇として即位させた。これが推古天皇である。奈良県・橿原市(かしはら)の植山古墳は推古天皇の陵墓とされている。
摂政・厩戸王
593年、推古天皇の甥の厩戸王(うまやどのおう)は、政権に摂政として参画した。
厩戸王の政策
冠位十二階の制
603年に氏族制度とは異なる原理で豪族を再編するために定められた。個人に対し、徳・仁・礼・信・義・智をそれぞれ大小に分けた冠位を与えて、王権組織を再編した。それぞれ紫・青・赤・黄・白・黒の6色の冠を授けたものである。個人の才能や業績、忠誠によって授けられ、官人一代限りであり、また功績によって昇進するのも可能であった。これは中国の官品や、朝鮮諸国の冠位を模範としたものであった。なお、この冠位を授けられたのは、中央豪族のうちの大夫(まえつきみ)層以下であり、大臣家の蘇我氏や王族、さらに地方豪族はあ冠位授与の例外であった。
憲法十七条
604年に厩戸王は憲法十七条(十七条の憲法)を制定します。
官僚制に再編されなきゃいけない諸豪族たちに国家的な官僚としての自覚を求めたもの。
政治的服務規程や道徳的訓戒を示したものである。
いわば官僚たちへの「心のルール」を作りました。
隋との外交交渉の場では、倭国の政治理念を憲法十七条で示しました。
国史の編纂
この頃から国家意識が芽生え始め、「天皇記」や「国記」、「臣連伴造国造百八十部公民等本記」(おみむらじとものみやつこくにのみやゆこももあまりやそとものおあわせておおみたからどものもとつふみ)がまとめられた。受験生は「帝紀」「旧辞」とよく間違える。蘇我馬子と聖徳太子によってまとめられた。
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