アヘン戦争の敗北で、
大清帝国は張り子の虎になります。
大清帝国の重税化と国民の貧困化
大清帝国は列強諸国との相次ぐ不平等条約を結びました。
アヘン戦争の後、清の農民は
大重税に苦しめられていきました。
農民たちは
各地で暴動を起こしました。
咸豊帝の即位
1850年、大清帝国の威光が揺らぐ中、
清朝第9代皇帝咸豊帝が即位します。
洪秀全と太平天国
アヘン戦争で中国で社会不安や貧困化が広がる中で、
社会不安が拡大した中国では人々は信仰を求めました。
洪秀全は1850年に広西省の金田村を拠点に蜂起し、
1851年1月に「太平天国」という国号で独立国家を樹立しました。
洪秀全は広州の近く挙兵し、
被差別民である客家(よそ者)の農民であった。
周囲の大きな期待を受けて、
何度も何度も科挙の試験を受けたが通ることはなかった。
洪秀全は病床に倒れて、
何日も熱にうなされて、
夢の中で洪秀全は天に登りました。
そこでは孔子を避難する天父上帝に遭い、
「地上を乗っ取って妖魔を一掃せよ」との
お告げがあった。
これは19世紀のことである。
このお告げの結果、
洪秀全はエホバを唯一絶対とする
一神教の立場から
秦の始皇帝以来の中国史を全否定する
夷狄の元・清皇帝を妖魔とする
上帝会が組織されました。
洪秀全はエホバの子としてイエス・キリストの弟だと名乗り、
自らを天王と称しました。
太平天国では清の伝統衣装である
辮髪をやめて、
同時に儒教の象徴でもある
漢族伝統の束髪も嫌がったので、
太平天国の人たちはロン毛を採用しました。
ロン毛の乱であったため、
太平天国の乱は、
長髪賊や髪匪賊とも呼ばれました。
匪賊とは悪者という意味です。
太平軍は咸豊3年、
貧民や流浪の盗賊を組織し、
超大軍となりました。
1853年3月には南京を占領して、
天京と名前を変えて首都としました。
太平天国は「滅満興漢」を合言葉にして戦しました。
滅満興漢とは満州族の清朝を打倒し、
漢民族の支配を復興するという意味です。
- 男女平等
- 土地均分
- 租税軽減
- 悪習の撤廃(アヘン吸引・纏足・辮髪)
などを掲げて戦った。
民衆の支持を集めました。
ちなみに
太平天国という意味は、
太平を実現する地上の天国を意味するものであった。
しかし、キリスト教には国家秩序の理想はありません。
とはいえ、
太平天国の乱は儒教に象徴される
中国の伝統をも否定し、
特段キリスト教の理念も入っていなかった。
そのため、
中国の伝統の上で上級国民だった
漢人の地権者や大清帝国の官僚には敬遠された。
一時は中国の内地を大清帝国と太平天国で二分する勢いだったが、
やがて太平天国指導者層の内紛や紀律の乱れなどで衰退し、
しかも、結局掲げた理想の政策も実行しなかったので、
太平天国は支持を失っていった。
内憂外患
こうして大清帝国は内乱である太平天国の乱と、
外部とのアロー戦争が同時に起こる状況になり、
まさに内憂外患という状態になった。
太平天国の乱の鎮圧
太平天国は14年間続いたが、
結局は理想を忘れて、
内部分裂し、
中国の大地主や大商人による
イギリス人のゴードン将軍による
外国人部隊を雇って戦った。
最後には、
李鴻章や曾国藩らの
義勇軍に攻められて太平天国は滅びました。
李鴻章とは、
清の軍事・外交に大きな影響を持った政治家です。
のちに下関条約に日清戦争の全権として派遣されました。
曾国藩も清の政治家でした。アメリカに留学生を送るなどして、
中国の近代化につとめました。
洪秀全の理想は、
日本に留学して力を蓄えた
三民主義の孫文らに受け継がれます。
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