文治主義の結果、宋は対外的な軍事力が下がり、そのため、北方や西方から遊牧民が絶えず、やってきては侵入することに対し、常に守勢となった。つまり、対外的には消極的だったということである。
1004年契丹族の遼と澶淵(せんえい)の盟を結ぶ
- 莫大な歳幣(毎年銀10万両・絹20万匹(ひつ))を宋は遼に贈る。
- 遼は宋に攻撃をしない
※1匹=12.29m 両=37.3kg
1041年タングート族(党項族)の西夏と慶暦の和約を結ぶ。
- 宋は絹13万匹、銀5万両、茶2万斤を西夏に贈ること。
- 西夏は宋に臣下の礼をとること。
- 西夏は宋に攻撃しないこと
一応国内は平和になったが、こうした、対外的支出に加え、増加した官僚と傭兵の給与で国家財政は危機に陥る。
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