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戦後の昭和時代経済復興から高度成長へ

冷戦の雪解けと鳩山一郎内閣の自主外交 ―日ソ共同宣言・領土問題から55年体制まで―

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鳩山一郎内閣(1954-1956年)に政権を担当していました。

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1. 冷戦の雪解けとアジア・アフリカ会議(バンドン会議)

米ソ冷戦の緩和(雪解け)

1955年、米・英・仏・ソの首脳によるジュネーヴ四巨頭会議が開催され、ヨーロッパの安全保障や軍縮などが話し合われ、冷戦に一時的な「雪解けムード」が訪れました。

アジア・アフリカ会議(バンドン会議)

 同年、インドネシアのバンドンでアジア・アフリカの29ヶ国が参加して開催されました(AA会議とも呼ばれます)。この会議では平和共存などを定めた平和十原則が確認され、米ソのどちらにも属さない勢力は「第三勢力」と呼ばれました。

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2. 鳩山内閣の「自主外交」と日ソ共同宣言・領土問題の変遷

自主外交の展開

第1次・第2次・第3次鳩山一郎内閣は、アメリカ(当時のトルーマンやアイゼンハワー政権)との間に一定の距離をとりつつ、社会主義・共産主義諸国とも自主的に関係改善を図る「自主外交」を唱えました。

日ソ共同宣言(1956年)

1956年、外務大臣の重光葵らがモスクワを訪れ、ブルガーニン首相らとの間で日ソ共同宣言が調印されました。これにより日ソ間の23年ぶりの国交回復が実現し、日本の国際連合(United Nation / 連合国)加盟への道が開かれました。

領土問題の歴史的背景(ヤルタ会談とポツダム宣言):

ヤルタ会談の密約

第二次世界大戦末期の1945年2月に開かれたヤルタ会談において、アメリカ(ルーズベルト大統領ら)は、日本の早期終戦とアメリカ軍の損害を減らすため、ソ連(スターリン)に対して「千島列島などを引き渡すから対日参戦してくれ」と持ちかけ、領土割譲を約束する密約が結ばれました。

ポツダム宣言と千島列島の除外

その後日本が受諾したポツダム宣言の規定により、日本の領土は本州・四国・九州・北海道、および連合国が決めるその他の諸島に限定され、千島列島は日本の領土から除外されることになりました。

二島返還論から四島返還論への変化とダレスの恫喝:
  • 当初の日ソ交渉では、歯舞群島と色丹島の「二島返還論」を軸に話が進められていました。
  • しかし、日本とソ連の接近を嫌ったアメリカのダレス(国務長官)の恫喝(「日本が北方領土のソ連領有を認めれば、沖縄をアメリカの領土として永久に手放さない」という圧力)を受けたことで、日本政府の方針は北方四島すべてを対象とする「四島返還論」へと強硬化していきました。
  • なお、こうした背景には、ソ連が当時有効だった日ソ中立条約を一方的に破棄して侵攻してきたという深刻な歴史的経緯もありました。
  • その他の国々との関係: 東西冷戦の枠組みの中では、ポーランドやチェコスロバキアといった東欧の社会主義諸国とも国交回復や関係正常化の動きが見られました。
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3. 国内政治の変動:「55年体制」の成立と防衛・憲法問題

防衛力(実力組織)と憲法改正の動き

鳩山内閣は自衛力の増強を進め、憲法第9条が禁じる「戦力」とは異なり、「自衛のための必要最小限度の『実力組織』であれば憲法違反ではない」という解釈を確立させました。さらに国防会議の設置や憲法調査会を設けて憲法改正を提唱するなど、国家体制の整備を図りました。

社会党の再統一と保守合同

それまで分裂していた日本社会党(鈴木茂三郎や浅沼稲次郎ら)が再統一を果たしたことに対抗し、保守政党である自由党と日本民主党が合流する「保守合同」が1955年に実現しました。

55年体制の誕生

保守合同により初の自由民主党内閣が誕生し、保守の自由民主党と革新の社会党(後の社会民主党)が対抗する「55年体制」が確立されました。一と二分の一体制とも言われます。⚠️ テスト注意点: テストでは略称の「自民党」ではなく、正式名称の自由民主党と記述するようにしましょう。この体制は、その後の保守長期単独政権へとつながっていきます。テレビでは自民党と言われることも多いですがテレビの言う事ばっかりあまり信じないようにしましょう。

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