元の成立
モンケの死によって、後継者を決めなくてはならなくなりました。
しかし、モンケの子供たちは20代と若く即位できず、
モンケの弟のフレグは遠征中のため即位できませんでした。
そのため、後継者はクビライ(フビライ)とアリクブケ(アリクブカ)に絞られてしまいました。
クビライは華北の総督で開平府に在住しており、アリクブケはカラコルムで防衛の仕事を任されていました。
モンケの側近はアリクブケを支持し、アリクブケ有利に当初、見えました。
しかし、1260年3月クビライはクーデタを起こして、開平府でクリルタイを開いてむりやり即位してしまいます。
焦ったアリクブケは翌月カラコルムで同じ方法で即位してしまいます。
王様が2人になってしまいました。
1264年7月、本拠地が華北の開平府ということもあり、物資が豊富で、
なおかつチャガタイ家の支援のもとクビライはアリクブケに打ち勝ちました。
クビライはアリクブケの家臣を処刑し、アリクブケはクビライの実の弟ということもあり軟禁状態で終わりました。
1264年カラコルムから大都(現・北京)に都を定め、年号を中統とし、
また、1271年国号を元としました。
この国号は「易経」乾の「大哉乾元、万物資始」(おおいなるかなけんげん、ばんぶつとりてやむ)に由来します。歴代の王朝は初代皇帝(未即位)の封地の地名から国号をとったのですが、古典からとったのはこれが初めてです。
元は中国の君主独裁体制の機構を継承して、
中央には中書省(行政)枢密院(軍事)御史台(監察)を中心とする中央集権体制を敷きました。
地方には州県制を採用して、さらに上級の機関として、行中書省と路が設けられました。
行中書省は中書省の出先機関で、地方には10の行中書省が置かれ、路・府・州・県を統率。略して行省と呼ばれた。現在の省はこれがさらに略されたもの。
南宋への侵攻はこの間も進められ、江南の双璧である襄陽(じょうよう)・鄂州(がくしゅう)を陥落させ、1276年正月南宋の首都・臨安(現・杭州)を占領しました。一部は皇族を引き連れ抵抗するも、崖山(がいさん)の戦いで南宋は完全に滅亡した。南宋の幼い皇帝の兄弟は流浪の末に海へ身を投じました。
そのため、日本の安徳天皇とよく対比される。
大都
現在の北京の直接の起源になっています。
元時代の土壁が現在もでも一部残存しています。
元時代の土壁が現在もでも一部残存しています。
(明清時代には北1/3がつづめられました)
1266年クビライはかつての金の首都・中都の東北に
劉秉忠(りゅうへいちゅう)などに壮大な帝都を建設することを命じた。
1271年には大都と命名し、1293年に完成します。
大都の構造
中央部の南端に宮城、その周囲に皇城があり、その外側に全長28.6kmの外城があった。
大都の中心には港をもつ積水潭(せきすいたん)があり、通州と結ぶ通恵河と呼ばれる運河で接続され、
水運海運の起点となり、また、全国の富が大都へ集められた。
儒家の「周礼」に則った初の王朝の都で、
皇城の左側にモンゴルの祖先を祀る太廟(たいびょう)、
右側に大地神を祀る社稷壇(しゃしょくだん)が置かれた。
一方北側は牧畜用の草原になっていた。
カンバリク(カンバリック/カンの都)と呼ばれ、
100万人を超える人口があり、杭州と並び世界の大都市であった。
仏教・道教・イスラーム教・キリスト教の施設が建てられ、
様々な民族が暮らしていた。
しかし、クビライ自身は大都に住まうことは少なく
宮廷と軍隊(ケシクなど)を引き連れ、郊外に天幕を張って宿営し、
季節によって西北の上都と移動していた。
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