伊勢氏と早雲
伊勢氏は室町幕府の政所の執事の家系でした。
世が世ならエリート官僚として、
伊勢新九郎盛時も活躍していたことでしょう。
堀越公方御家騒動
堀越公方、足利政知の死
1491年4月3日、足利義政の異母弟である足利政知が伊豆(現在の静岡県)で亡くなった。
はじめ、足利義澄は天竜寺香厳院主だったが、
鎌倉公方・足利成氏が古河で挙兵したため、
これに対抗すべく1457年、還俗(げんぞく)して関東に下向した。
しかし、関東諸将の反発にあい、関東には入られなかった。
そのため、伊豆国堀越(静岡県伊豆の国市韮山町)にとどまり、堀越公方と呼ばれるようになった。
家督争い~茶々丸vs円満院・潤童子
足利政知の長男・茶々丸と
継母の円満院・弟の潤童子との争いが発生します。
茶々丸は円満院と潤童子を殺害し、公方の地位に着きました。
茶々丸の外山豊前守らを殺害
茶々丸が公方の地位につくと、
茶々丸派と旧政知派らが対立しました。
家臣・外山豊前守らを殺害すると、
伊豆は内乱状態になりました。
武田家内乱
茶々丸を認めるか否かで、
武田信縄と武田信昌の間で内乱が起こりました。
北条早雲の伊豆討ち入り
駿河守護・今川氏親の伯父・北条早雲(伊勢新九郎盛時)は興国寺城を出発し、堀越御所を襲撃した。その後、茶々丸は伊豆大島や山内上杉家や甲斐の武田氏に逃れる。
北条早雲と潤童子の関係性
京都で細川政元により、明応の政変が同年発生したが、足利義澄は足利政知の次男で、茶々丸に殺害された潤童子の兄にあたり、今川氏親と北条早雲とは政治的に親しかった。明応の政変とは関連性がある。といえる。
明応東海地震
伊豆半島に深刻な被害をもたらした。
駿河国清水より西伊豆に向かった早雲は、
早雲は救済にあたった。
堀越公方の滅亡
その勢いにのって、1498年、下田を攻撃、
茶々丸は自害し、堀越公方は滅亡した。
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