「問答無用」の時代の到来を告げる事件が
二・二六事件より前に
二・二六事件とは違い犯人は海軍将校らを中心に発生します。
五・一五事件は、日本の近代史における重要な出来事です。この事件は、1932年5月15日に発生し、日本の政党政治の終焉と軍国主義の台頭を告げるものでした。この記事では、五・一五事件の概要、原因、犯人、そしてその影響について簡潔に説明します。
五・一五事件とは?
五・一五事件は、1932年5月15日に発生した暗殺事件で、当時の内閣総理大臣である犬養毅が海軍青年将校らによって暗殺されました。この事件により、犬養内閣は崩壊し、政党政治の時代は終わりを迎えました。
なぜ五・一五事件が起こったのか?
五・一五事件の背景には、以下のような要因がありました。
- 経済的不安:世界恐慌の影響で、日本経済は深刻な不況に見舞われていました。経済的な混乱が政治的不安を引き起こしました。
- 軍部の不満:海軍を中心とする軍部は、政府の外交政策や経済政策に不満を抱いており、軍部の影響力を強化しようとしていました。
- 右翼勢力の台頭:農本主義者や右翼団体が、軍部と連携して政権打倒を図りました。
五・一五事件の犯人
五・一五事件の主な犯人は、海軍青年将校と陸軍士官学校の生徒たちでした。具体的には、薩摩閥に属する海軍将校や、農本主義者である橘孝三郎が率いる民間右翼団体「愛郷塾」のメンバーが関与していました。彼らは首相官邸や日本銀行、警視庁などを襲撃し、犬養毅を暗殺しました。
五・一五事件の影響
五・一五事件は、日本の政治と社会に大きな影響を与えました。
- 政党政治の終焉:犬養内閣の崩壊により、政党政治の時代は終わりを迎え、軍部が政治の主導権を握る時代が始まりました。
- 軍国主義の台頭:この事件を契機に、軍国主義が勢いを増し、日本は戦争への道を進むこととなりました。
- 言論の自由の抑制:軍部の影響力が強まるにつれ、言論の自由が抑制されるようになり、反対意見が許されない時代が到来しました。
「話せばわかる」と「問答無用」
五・一五事件で有名なエピソードの一つに、犬養毅とテロリストの間で交わされた言葉があります。犬養毅が「話せばわかる」と説得を試みたのに対し、テロリストは「問答無用」と一言で射殺しました。このやり取りは、日本の政治史における象徴的な出来事として語り継がれています。
まとめ
五・一五事件は、日本の近代史において重要な転換点となった事件です。この事件を理解することで、当時の日本の政治情勢や社会の動向を知ることができます。五・一五事件は、政党政治の終焉と軍国主義の台頭を告げるものであり、その影響は後の日本の歴史にも大きく影響を与えました。
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