伊勢平氏の発展
桓武平氏と伊勢平氏の関係性
平忠常の乱よりあとのこと
源氏に立場は取って代わられてしまい
桓武平氏一族は散り散りになってしまいました。
関東に残った桓武平氏の中には、
源氏の家人となるものもいたそうです。
平将門の乱で功績があった
平貞盛の子の平維衡(たいらのこれひら)が
伊勢に土着したのが伊勢平氏(いせへいし)のはじまりです。
伊勢平氏は、現在の三重県に位置する伊勢や伊賀を基盤としました。
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平正盛
伊勢平氏の中でも、
平正盛(たいらのまさもり)は、
伊勢平氏の地位向上に大きく貢献します。
白河上皇への接近
白河上皇が建立した六条院のために寄進を進めたりして、院との結びつきを深めていった。
荘園の寄進
伊賀国(いがのくに)の荘園を白河上皇に寄進。
源義親討伐
源義親の乱を鎮圧し、受領や検非違使となって伊勢平氏の地位を高めました。
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受領
検非違使
平忠盛
平忠盛(たいらのただもり)は平正盛の子です。
美作(みまさか/現在の岡山県東北部)、
播磨(はりま/現在の兵庫県の南西部)などの
国司を歴任し伊勢平氏の財力を蓄えました。
鳥羽上皇への接近
瀬戸内海の海賊討伐に功績があり、
鳥羽上皇の信頼をえました。
受領として、1001体の千手観音像を安置する、
得長寿院(とくちょうじゅいん)を造営したことから、
院の昇殿を許されるまでになりました。
保元の乱
保元の乱の背景
鳥羽上皇の死去と皇位継承
鳥羽上皇は源平の武士を組織して、
さらに荘園の集積も行いました。
こうした専制政治を展開したので、
権力を巡る争いは泥沼化していきました。
1156年鳥羽上皇が死去すると、
皇位継承争いが起こることになります。
崇徳上皇と後白河天皇の対立
鳥羽上皇と対立していた鳥羽上皇の子の
崇徳上皇(すうとくじょうこう)と、
鳥羽上皇の立場を引き継いで、
朝廷の実権を握った後白河天皇(ごしらかわてんのう)が争うことになりました。
藤原忠通と藤原頼長の対立
朝廷の対立より前に院の近臣化していた
摂関家の藤原氏の中でも継承に対しても争いが生じていました。
関白である兄の藤原忠通(ふじわらのただみち)と弟の藤原頼長(ふじわらのよりなが)の対立です。
保元の乱は皇室の争いと摂関家の争いが入り混じったものでした。
上皇側
崇徳上皇側についたのは、
- 崇徳上皇
- 藤原頼長
- 平忠正
- 源為義
です。
天皇側
後白河天皇側についたのは、
- 後白河天皇
- 藤原通憲(藤原信西)
- 藤原頼長
- 平清盛
- 源義朝
です。
保元の乱の中身
この戦では、源氏と平氏の武士団が入り乱れて戦いました。
父と子、おじと甥が戦いました。
保元の乱の結果
敗戦処理
崇徳上皇は隠岐へ配流
藤原頼長は戦死
平忠正・源為義は死刑
源為朝は配流となりました。
保元の乱の影響
はじめての京都を舞台とした合戦で、
貴族に衝撃を与えました。
また、武士が政治争いに巻き込まれたことで、
時代の転換を予感させるものとなりました。
- 愚管抄(ぐかんしょう)には、
保元の乱以降を「武者の世(むさのよ)」になったと記されています。
保元の新制
政治の主導役を担った藤原通憲は、
平清盛の武力を背景にして、
保元の新制(ほうげんのしんせい)を行いました。
内容
- 荘園の整理
- 悪僧・神人の乱暴の取締
など
鳥羽上皇の社会動乱に対して少しずついい社会にしようと、
新しい政治を始めていきました。
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