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戦国時代

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戦国時代

細川京兆家重臣赤沢朝経、延暦寺の堂舎を焼き払う

比叡山って、何回も炎上してるの知ってますか?大河ドラマで東海ルートの戦国時代の主人公が選ばれると、毎回焼かれるのがお約束の延暦寺。今日は普段と違う焼かれ方の歴史をお伝えしたいと思います。朝倉家vs細川京兆家元々、足利将軍家は京都の大名ではあ...
戦国武将

十一カ国の太守・尼子経久の妙法蓮華経の信仰

中国地方の覇者とも呼ばれ、謀将であり、尼子経久は出雲国を中心に十一カ国の太守と未来では言われることになった。そんな中で、1515年出雲国の大領主尼子経久あまごつねひさは、「妙法蓮華経」を出版し、領内の寺社に寄贈しました。尼子経久による、開板...
戦国時代

熊野大社の本宮と新宮の戦い 室町幕府が調停し、熊野詣も一安心

熊野三社とは?本宮新宮那智大社の三社が熊野三社と呼ばれます。16世紀も熊野詣は盛んで、この頃は「アリの熊野詣」と呼ばれました。熊野三社には、北は青森から南は愛媛まで、各地の村々に熊野講ができて、先達せんだつと呼ばれるガイドが道案内人になって...
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徳川家康

姉川の戦い-場所は?勝敗は?をわかりやすく-

2023年は徳川家康公の大河ドラマですね。ちょっとまとめておきますね。野洲川の戦い-vs六角-1570年6月4日、六角義賢・六角義治親子は南近江の国人一揆を吸収して、先導し、野洲川やすがわ下流に進出いたしました。対して滋賀県野洲市の永原城に...
徳川家康

徳川家康の性格-姓名判断と数秘術と算命学をかじった性格推定-

今まで需要のない記事を、たくさん生産してきたようなので、これからは需要のある記事に方向転換して、徳川家康の性格診断を行ってみます。算命学に基づく徳川家康の性格徳川家康の生年月日は、1543年1月31日です。徳川家康は辰巳天中殺ということにな...
徳川家康

松平氏、徳川氏へ改姓

1566年12月29日、松平元康は、徳川元康へ改称します。織田氏も松平氏も平家の名字。松「平」だと平家なのまるわかりだったということもあります。
徳川家康

清洲同盟締結-天下統一へ向けて織田信長と徳川家康(松平元康)の関係は強固に

さてさて、大河ドラマで需要がありそうな、清洲同盟の記事も書いていきますよ。きっと戦国時代が舞台になる度にアクセスが稼げる記事になるでしょう。桶狭間の戦いの復習1560年5月19日、今川義元が織田信長に倒されて討死します。桶狭間の戦い-今川家...
徳川家康

徳川家康(松平元康)と桶狭間の戦い-岡崎城への13年ぶりの帰還と松平氏の独立-

七か条の法度1559年5月16日、桶狭間の戦いの1年前、元康は七か条の法度を出します。七か条の法度には関口義広や朝比奈親徳などが書かれており、松平氏は今川家臣として臣従していたことを示しています。桶狭間の戦い1560年5月19日、今川義元・...
徳川家康

徳川家康(松平元康)と今川義元の姪の築山殿(瀬名姫)との結婚と関口氏

さて、筆が乗ってるので、家康の話を進めていきますね。松平元信、築山殿との婚儀1557年1月15日、松平元信(16歳)は今川氏の重臣・関口義広の娘・築山殿(瀬名姫)の婚儀が駿府の今川館で執り行われました。築山殿の年齢は?築山殿の年齢は6歳上だ...
徳川家康

松平竹千代(→松平元信)の元服in駿府…今川氏の部将に。

さてさて話は進んで、竹千代が元服して松平元信になる話です。松平元信は14歳で今で言う「大人」になります。松平元信の元服式1555年3月、三河岡崎城の城主になった松平竹千代(のちの徳川家康/14歳)は、駿府すんぷ(現在の静岡市)の今川館で元服...
徳川家康

竹千代(徳川家康)、今度は今川氏の人質になる

松平広忠の死1549年3月6日、のちの徳川家康として知られる竹千代の父・松平広忠(24歳)が側近の岩松八弥に殺されてしまいます。岩松八弥は植村新六郎によって、討ち取られました。太原雪斎(崇孚)、岡崎城へ松平氏は、竹千代を除いて、なかば断絶状...
徳川家康

徳川家康の織田氏への拉致と2年間の人質生活

さて、来年の大河ドラマに合わせて家康の話も進めていきます。織田信秀の三河・岡崎城攻め1547年、37歳の織田信秀は、松平忠倫を織田氏に寝返りさせます。織田信秀は調略がうまかった武将です。尾張の配下にすぎないのによく寝返りさせています。織田信...
徳川家康

徳川家康(竹千代)の誕生-竹千代の母・水野於大と松平氏と水野氏について-

来年、大河ドラマで「どうする家康」が放送されますね。現在、鎌倉時代の鎌倉殿の13人が絶賛放送中ですが、予算の都合上、鎌倉時代は資料が足りていません。そこで、もう今年は諦めて、来年の分をまとめます。水野氏とは?三河国刈谷城を本拠とする豪族です...
応仁の乱

応仁の乱の前哨戦-三管領細川氏の伊予侵攻と赤松氏の播磨強奪-

大きな大戦の前には、小さな戦いが相次いで起こり、勢力が2つに分かれて、分断していく流れが起こります。代表的なのは、日本の場合、応仁の乱でしょう。今回は応仁の乱の前哨戦について見ていきましょう。細川勝元の伊予侵攻細川勝元の兵糧強奪赤松政則の播...
応仁の乱

応仁の乱(1467年~1477年)の年号の語呂合わせ

応仁の乱は1467年-1477年応仁の乱の語呂合わせを色々考えてみました。応仁の乱は1467年に発生しましたね。応仁の乱は11年間続いているので、応仁の乱は何年ですか?って聞かれたら、正確には応仁の乱は1467年だけじゃなくて、1467年~...
応仁の乱

応仁の乱の原因・理由

応仁の乱(1467年~1477年)は、日本の戦国時代の幕開けとなった大規模な内乱です。この乱は、将軍家の世継ぎ問題や有力大名家の相続争いなど、複数の要因が絡み合って勃発しました。この記事では、応仁の乱の背景と原因について詳しく解説します。応...
戦国時代

桶狭間の戦い-今川家の真の狙いは?信長は何故勝った?-

今川義元の尾張侵攻大義は上洛はウソ?昔は、今川家は上洛のためと考えられていたが。尾張への侵攻は、 三河支配の安定のため 鳴海城の救援 尾張を獲得するためという説が最近いわれる真相である。今川家の尾張侵攻今川義元、駿府城を出立1560年5月1...
戦国武将

斎藤道三、親子の国盗り下剋上物語

「国盗り物語」のかつての通説斎藤道三は、山城国西岡やましろのくににしおかの浪人・松波基宗まつなみもとむねの子で、幼くして京都妙覚寺に入り法蓮坊ほうれんぼうと名乗っていました。やがて、俗世へ還俗して、油商・奈良屋に入婿しました。美濃国へ油の行...
戦国武将

毛利元就、家督をつぐ「元綱事件」大内・尼子の間をめぐり

毛利氏、尼子経久につく毛利氏を始めとする安芸国の国人衆は、1523年6月に大内氏の安芸国の拠点・鏡山城を落とした尼子経久に従っていました。幸松丸の死1523年7月15日に9歳で幸松丸は夭逝しました。毛利元就の家督継承1523年8月10日、毛...
戦国武将

毛利元就の初陣と有田中井手の戦い

有田中井手の戦いの背景武田元繁の独立中国地方の多くの武将は、大内義興おおうちよしおきに従っていました。1515年、武田元繁は、大内義興より独立します。安芸有田城攻略大内義興の配下で、毛利家当主・毛利興元は、武田元繁配下の安芸有田城を奪います...
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