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日本史

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平安時代後期

治承・寿永の乱(源平合戦)と平家の滅亡

平清盛と安徳天皇1180年安徳天皇が即位します。安徳天皇とは?安徳天皇は平清盛の娘である建礼門院徳子を母に持ち、後白河法皇の皇子、高倉天皇を父に持つ。平氏追討の令旨後白河法皇の第2皇子、以仁王(もちひとおう)が、平氏追討の令旨(りょうじ)を...
平安時代後期

平氏没落を早めた「鹿ヶ谷の陰謀」

以前、平氏政権の全盛~この一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし~で平氏が官職の独占によって、全国の支配をはかりました。しかし、独占によって、旧勢力である追いやられた公家勢力から強い反発を受けることになります。建春門院の死去平清盛の妻の姉妹で...
平安時代後期

日宋貿易について~音戸の瀬戸・大輪田の泊・誰が?・輸出入品~

平氏は平忠盛以降、日宋貿易にも力を入れだします。平忠盛の政治日宋貿易の背景11世紀後半以降、日本と高麗・宋との間で商船の往来が活発となり、12世紀に層が北方の女真の立てた金に圧迫されて、南に移ってからは南宋との通商も盛んに行われるようになっ...
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弥生時代

奈良・纒向遺跡出土の桃の種、年代測定 邪馬台国論争に一石

奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で見つかった大量の桃の種の年代を測定した結果、女王・卑弥呼の時代と重なることがわかりましたまぁ、個人的には、桃の種はあくまでも状況証拠で、決定的証拠とは言えないと思います。畿内に中国と国交があったクニがあっ...
江戸時代

「禁中並公家諸法度」江戸幕府の皇室と朝廷と公家の統制

江戸幕府は体制を維持させるために、さまざまな階層を触書や法度、掟を使って統制しました。今回は、天皇と朝廷と公家への統制を見ていきます。公家統制まず、公家を見ていきます。公家に対しては、1613年に公家衆法度5ヶ条(くげしゅうはっと5かじょう...
明治時代初期

版籍奉還とは?目的は?いつ?その意味と行った理由を簡単に~

版籍奉還は1869年(明治2年)7月に政府が布告した行政改革のことです。政策の具体的な内容と、版籍奉還を日本に導入した人物についてみていきましょう。版籍奉還とは?大名が持っている土地と人民の支配権を天皇に返させる政策です。版籍とは? 版・・...
明治時代初期

明治維新政府の発足と五箇条の誓文

明治維新政府は、まず、全体の方針を打ち出します。五箇条の誓文最近は御誓文とは言わないようです。これは、明治天皇が国民に発したのではなく、紫宸殿(ししんでん)で天地神明に誓約する形で出したものです。骨子は開国和親と公議輿論の尊重です。内容 広...
幕末

戊辰戦争と江戸城無血開城

前回、新政府が、徳川慶喜を政権に加えず、辞官納地を迫ったことで、徳川慶喜は大坂城に引き上げたことをお伝えしました。戊辰戦争の由来戊辰とは、干支が戊辰だったことに由来します。因みに干支は十干十二支とも呼ばれ、十干と十二支の組み合わせで表されま...
幕末

江戸幕府の滅亡~大政奉還と王政復古と徳川政権の終わりの理由~

第15代将軍は坂本龍馬の船中八策を受け継いだ公儀政体論に基づく土佐藩の進言を受け入れ、天皇へ大政奉還をします。しかし、徳川中心の公儀政体論に反発した岩倉具視は薩長に討幕の密勅を出します。さらに、王政復古の大号令をだし、幕府を認めず、徳川慶喜から官職と領土を奪うことを宣言し、徳川との対決姿勢を鮮明にするのでした。
戦後の昭和時代

庶民首相の田中角栄内閣~日中共同声明・日本列島改造論~

佐藤内閣総辞職閣僚の放言事件や新防衛力整備計画の予算先取り問題なども発生して、沖縄返還後、1972年7月に第3次佐藤内閣は総辞職しました。戦後最長内閣戦後の首相では、在任期間が現時点では最も長い政権は佐藤栄作内閣です。7年6ヶ月にも及びまし...
幕末

薩長連合(薩長同盟)締結-

坂本龍馬が歴史の教科書から消えたとしても、サイト運営主は歴史用語を増殖させることで、歴史に少しでも興味をもってもらえれば、と考えています。薩長連合の締結薩長連合締結の背景長州藩の背景長州藩の軍備強化を背景に、幕府から第1次長州征討の戦後処理...
幕末

第一次長州征討(征伐)と高杉晋作のクーデター

第一次長州征討長州征討の勅旨禁門の変で京から追い出された尊王攘夷派にさらなる追い討ちをかけるために、「禁門の変の罪を問う」という理由で、朝廷から長州征討の勅旨を出させました。そうして長州藩を攻撃しました。長州藩の降伏長州藩は四国連合艦隊下関...
戦国時代

三好元長の死~和泉の一向一揆・足利義維の失脚~

前回のあらすじ中嶋の戦いの背景 堺公方府の河内国守護・畠山義宣(はたけやまよしのぶ/義尭(よしあき)、義英(よしひで)の子)と河内守護代・木沢長政(きざわながまさ)の対立が原因です。1531年8月に、畠山義宣が木沢長政の飯盛城(いいもりじょ...
幕末

長州藩外国船砲撃事件と四国連合艦隊下関砲撃事件

孝明天皇は和宮親子内親王の結婚を許す代わりに、攘夷の断行を要求しました。詳しくはをご覧ください。1863年、賀茂神社で攘夷祈願をした孝明天皇は、将軍の徳川家茂に攘夷を決行する日を迫りました。条約に攘夷はしないと外国と約束していたため、一橋慶...
幕末

薩英戦争と参預会議~生麦事件の報復と島津久光の野望~

生麦事件島津久光の大名行列を横切ったイギリス人が殺される事件が1862年、横浜の生麦村で発生していました。イギリス代理公使ニールの要求 犯人の処刑 賠償金の要求賠償金は幕府が支払ったが、イギリスは薩摩藩に犯人の引渡しを要求した。薩英戦争薩英...
幕末

池田屋事件

池田屋事件1864年、池田屋事件(いけだやじけん)が発生します。京都守護職の指揮下で京都市中の警備にあたっていた近藤勇(こんどういさみ)率いる新撰組(しんせんぐみ)が、京都の旅館・池田屋で、20数名の長州藩士や尊皇攘夷派志士を、殺傷した事件...
幕末

公武合体運動(和宮親子内親王と徳川家茂のご成婚ほか)と尊王攘夷運動

井伊直弼の死後、幕府は求心力を失い、朝廷の威光を借りようとする。安藤信正の公武合体政策井伊直弼の死後、幕府では安藤信正(あんどうのぶまさ)と久世広周(くぜひろちか)などの老中たちが幕府の体制を戻そうとします。公武合体とは?幕府は公武合体(公...
幕末

江戸幕府の動揺と幕末の政治・経済大混乱と~安政の大獄から桜田門外の変へ~

日本は1854年に開国して、1859年から貿易が始まりました。当時の日本においての金の価値は、海外と比べて低かったために、金が海外へと流出を初め、日本経済は混乱しました。井伊直弼への責任追及の声日本経済混乱をもたらしたのは、井伊直弼(いいな...
経済復興から高度成長へ

佐藤栄作内閣~日韓基本条約と小笠原諸島・沖縄返還協定~

1964年11月、池田勇人首相の病気のために第3次池田内閣は総辞職しました。これによって、自民党の佐藤栄作(さとうえいさく/1901年~1975年)が内閣を組織しました。いざなぎ景気池田内閣の経済矛盾の露呈池田内閣の高度経済成長によって、物...
平安時代後期

平氏政権の全盛~この一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし~

平清盛の政治~六波羅政権~平清盛が平治の乱に勝利して、六波羅政権を確立します。実は平清盛の前に、一族の土台がちゃんとありました。六波羅政権平清盛は1167年に武士として最初の太政大臣となりました。政庁や一族の居宅を六波羅に構えたので、平氏政...
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