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世界恐慌とファシズム諸国の侵略

奈落への行進:アドルフ・ヒトラーと第三帝国の誕生-ヒトラー総統への道

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絶望の土壌と、ある男の浮上(1932年)

1932年、ワイマール共和国の首都ベルリンは、飢えと凍え、そして血の匂いに満ちていた。世界恐慌の直撃を受けたドイツの失業者は600万人を超え、街頭では共産党の突撃隊とナチスの武装組織が日常的に銃撃戦を展開していた。議会民主主義は完全に機能不全に陥り、国民の心にあったのは「明日のパン」への飢えと、既存政治への激しい憎悪だけだった。

この混迷の極みの中で、一人の男が爆発的な支持を集めていた。アドルフ・ヒトラー

彼は貴族階級の政治家のような冷徹な言葉ではなく、大衆の底底にある怨嗟、怒り、そして「かつての偉大なドイツを取り戻す」という誇りを、神がかった演説で代弁した。ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)は、単なる政治団体ではなく、傷ついた国民を熱狂で包み込む巨大な大衆運動であり、軍隊さながらの鉄の規律を持つ組織形態へと進化していた。

しかし、同年の大統領選において、ヒトラーは敗北を喫する。勝利したのは、かつての帝国を象徴する老英雄、ヒンデンブルク大統領であった。

大統領選には敗れたものの、ヒトラーが残した爪痕はあまりにも巨大だった。彼は現職大統領を最も脅かす有力な対抗馬としてその存在を全土に知らしめ、変革を望む何百万もの困窮した国民から、熱狂的な期待を集めていくことになる。

崩壊する議会と「大統領独裁」

同年に行われた国会総選挙は、地殻変動の瞬間となった。ナチ党はついに国会も、ほとんどの州議会で第一党の座へと躍進したのである。

この民意の激変により、それまで緊縮財政で国民の困窮を実質的に加速させていたブリューニング首相は退陣へと追い込まれる。

ここから、ドイツの民主主義は実質的な終わりを迎える。ヒンデンブルク大統領は、国会の承認を必要としない「大統領緊急令」を乱発し、議会を無視して自らの側近を首相に据える大統領独裁(大統領内閣)へと舵を切った。彼が首相に任命したのは、貴族主義的で独善的なパーペンであり、次いで軍部の黒幕であるシュライヒャー将軍であった。

ヒンデンブルクら宮廷陰謀団が求めたのは、ブリューニングよりもより右寄りの、強力な権威主義体制だった。しかし、彼らには致命的なものが欠けていた。それは「国民の支持」である。

一方のナチスは、党名に掲げた「社会主義」的なスローガン――資本家への批判や労働者の救済――を声高に叫び、困窮する労働者層を惹きつけていた。しかし、この大衆迎合的な姿勢と街頭での激しいテロ行為、そして「社会主義」の響きは、プロイセン以来の伝統を守ろうとする伝統的保守派からは不審の目で見られ、警戒の対象となっていた。

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悪魔の双子、その抱擁(1933年1月)

政権を握ったパーペン・シュライヒャー内閣だったが、国民の支持基盤を持たない砂上の楼閣はすぐに限界を迎えた。経済は一向に好転せず、議会は機能せず、街頭の暴動は激化する一方だった。

伝統的保守派の政治家たちは、恐るべき決断を迫られる。この未曾有の政治危機を打開し、激化する共産主義革命の恐怖に対抗するためには、圧倒的な国民の支持を背後に持つナチ党と組むしか道は残されていなかった。彼らは驕っていた。「ヒトラーを首相という神輿に乗せ、実権は我々保守派が握ればいい。泥泥の大衆運動など、宮廷政治のプロの手でいくらでもコントロールできる」と。

1933年1月30日、ヒンデンブルクは大統領官邸にヒトラーを呼び、彼を首相に指名した。

ここに、ナチ党・保守党連立政権が樹立される。内閣のポストの大半は保守派が占め、ナチ閣僚は少数派(ヒトラーを含めてわずか3名)に過ぎなかった。ベルリンの夜、突撃隊による松明の行進が凱歌をあげる中、保守派の閣僚たちは「我々は彼を閉じ込めた」と密かに胸をなでおろしていた。

だが、それは致命的な誤算だった。ヒトラーは最初から、彼らのルールで遊ぶつもりなど毛頭なかった。

ヒトラーは政権の主導権を完全に握るため、就任直後から牙を剥く。彼は保守派の反対を押し切って、国会を解散。政権樹立からわずか2日後、みずからの絶対的権力を確立するための総選挙を実施すると発表したのである。

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炎上する議事堂と消えた自由(1933年2月)

1933年2月、選挙戦が始まると、ドイツはかつてない激しい政治戦に突入した。ここでナチスは、当時の最先端テクノロジーであったラジオを、歴史上はじめて政治的に利用した。ヒトラーの情熱的な声は、全国の家庭、広場、工場のスピーカーから一斉に鳴り響き、国民の鼓膜を震わせた。

同時に、内相に就任したゲーリングを通じて警察権力を掌握したナチスは、突撃隊を「補助警察」として公認。国家の暴力装置を使って、共産党や社会民主党など反対派の選挙運動を徹底的に妨害し、その集会を暴力で解散させた。

そして選挙が佳境に入った1933年2月27日の夜、歴史の歯車を狂わせる大事件が起きる。

闇夜に突如、ベルリンの空を赤く染める炎が上がった。ドイツ民主主義の象徴である国会議事堂が放火され、炎上したのである。現場で逮捕されたのは、オランダ人の元共産党員、マリヌス・ファン・デア・ルッベであった。

ヒトラーはこの事件を最大限に利用した。彼はこれをドイツ共産党による武力蜂起の合図であり、国家転覆のテロの幕開けであると断定した。

事件の翌日、ヒトラーは狼狽するヒンデンブルク大統領を説得し、ワイマール憲法が保障していた信教、言論、集会、報道の自由、そして身体の自由や通信の秘密といった憲法の基本権を停止する「緊急令」(ドイツ国民と国家を保護するための大統領令)を発布させた。

国家は合法的に「狂暴な怪物」へと変貌した。この緊急令の下、裁判所の令状なしでの逮捕、無制限の勾留が可能となり、数日間のうちに数千人に及ぶ共産党員を拘束、その拠点は悉く破壊された。左派系の新聞は発禁処分となり、野党の口は完全に塞がれた。

しかし、ここまで徹底した恐怖政治とプロパガンダを以てしても、ドイツ国民のすべてがナチスに屈したわけではなかった。3月5日に行われた選挙結果は、ナチ党に単独での政権運営を可能にする単独過半数をもたらさず、得票率は43.9%に留まった。連立を組む保守党(国家人民党)の議席をあわせて、かろうじて過半数を維持するというのが、ワイマール共和国における最後の選挙の現実であった。

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全権委任と、共和国の終焉(1933年3月〜7月)

過半数を獲得したとはいえ、憲法を改正し、完全な独裁体制を築くには国会の3分の2以上の賛成が必要であった。ヒトラーはここで、議会そのものを屠る究極の法案を提出する。国会の立法権を政府に委ねる全権委任法(授権法)である。この法律が通れば、政府は国会の承認も大統領の署名もなしに、憲法に違反する法律すら自由に制定できるようになる。

召集された新国会召集の会場(臨時のクロール・オペラ劇場)は、武装した突撃隊(SA)によって包囲されていた。廊下や通路を埋め尽くした巨漢の男たちが、異議を唱えようとする議員たちを「全権委任法を通さねば、お前たちの命はない」と鋭い眼光で脅迫した。共産党議員はすでに全員が逮捕されるか逃亡しており、議席から排除されていた。

社会民主党の議員たちが決死の覚悟で反対演説を行う中、ヒトラーは壇上で激昂し、彼らを恫喝した。結果、恐怖に屈した中央党(カトリック系)などの全中道・右派政党が賛成に回り、法案は可決された。

ドイツの民主主義は、民主主義の手続きによって自らを抹殺した。

これ以降、ナチスは国民革命という美名の下に、ドイツ全土の急速な「一体化(同調強制)」を推し進めていく。

まず着手されたのは地方の主権の破壊だった。ナチスは各州、自治体の権力を掌握し、地方議会を解散させて中央から「国家弁務官」を派遣し、すべての地方行政をナチスの支配下に置いた。

次いで、突撃隊の暴力を背景に、激しい圧迫を加えられた他政党を解散においこんだ。7月14日には「新政党結成禁止法」が制定され、ナチ党による一党独裁体制が法的に確立された。わずか半年前まで、百家争鳴の民主国家だったドイツから、ナチス以外の政治的選択肢が完全に消滅したのである。

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全体主義の完成と恐怖の監視社会

国家の形を変えたヒトラーが次に手を付けたのは、国民の「魂」と「生活」の完全な支配だった。ドイツ社会の全組織が、ナチスの細胞へと作り変えられていった。

社会組織の圧殺と「一体化」

大労働階級の砦であった既存の労働組合を解散に追い込み、その資産をすべて没収。代わりに、すべての労働者を強制的にナチ組織に統合した「ドイツ労働戦線(DAF)」を結成した。これにより、ストライキの権利は剥奪され、労働者は国家の生産マシーンとなった。

それだけではない。スポーツクラブ、合唱団、慈善団体、果てはチェスサークルに至るまで、ありとあらゆる社会組織、団体が解体され、ナチ組織の下部構造へと改編された。ナチスの理念に染まらないコミュニティの存在は、一切許されなかった。

人々の目と耳も完全に塞がれた。言論機関、マスコミ、文化領域全般(文学、美術、音楽、演劇)は、ヨーゼフ・ゲッベルス率いる宣伝省の厳格な統制下に置かれた。ナチスの思想に反する書籍は広場で山積みにされて焼かれ(焚書)、ラジオや新聞は毎日、宣伝省が作成したニュースだけを国民に流し続けた。

テロルとゲシュタポの網

この一党独裁を底辺で支えていたのは、慈悲なき暴力と、社会の隅々まで張り巡らされた監視の目であった。

政権の暴力装置である突撃隊(SA)、そして不気味な黒い制服に身を包んだ親衛隊(SS)が街頭を支配した。彼らは社会主義者、民主主義者、そしてナチスに公然と異を唱える反対派を強制収容所に拘禁していった。ミュンヘン郊外に作られたダッハウ強制収容所をはじめとする施設には、裁判もなしに連行された人々が詰め込まれ、非人間的な虐待が加えられた。

そして、ナチスの真の恐ろしさは、人種主義に基づく憎悪のシステム化にあった。政権誕生直後から、国家の敵と見なされたユダヤ人商店に対する組織的なボイコット運動が始まり、窓ガラスが叩き割られ、凄惨な暴力やテロ、弾圧が日常の光景となった。

国民は、隣人が、同僚が、あるいは我が子が自分を密告するかもしれないという恐怖に怯えるようになる。国家秘密警察、通称ゲシュタポは、市民社会の中に無数の情報提供者の網を張り巡らせていた。居酒屋での何気ないヒトラーへの不満、冗談、それらすべてがゲシュタポへの密告対象となり、ある日突然、黒いコートの男たちが家門を叩いて破滅をもたらした。

広範な監視体制の中で、国民は公然と抵抗する術を失い、沈黙するか、あるいは自らも熱狂の渦に飛び込んで同調するかの二者択一を迫られた。

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総統(フューラー)の誕生

1934年8月、ナチ化されたドイツを見届けるように、老統領ヒンデンブルクが死去する。ヒトラーは直ちに大統領職を廃止し、その権限を自らの「首相職」へと統合した。

ここに、国家元首、政府首班、党首、そして全軍の最高司令官という、ドイツのすべての権力を一身体に集約した絶対的独裁者――「総統(フューラー)」が誕生したのである。

かつて世界で最も民主的と言われたワイマール憲法の下で、絶望した大衆の熱狂を追い風に、合法的なステップを踏みながら独裁へと登りつめたヒトラー。この時、ドイツ国民は救世主を迎えたと歓喜していた。しかし彼らが足を踏み入れたのは、やがて自国とヨーロッパ全土を焦土へと変える、地獄への片道切符だったのである。

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