織田信長による「天下布武」への道のりの中でも、最も凄惨かつ徹底した殲滅戦として知られる「伊勢長島一向一揆」の結末について解説します。
1. 泥沼の抗争:信長を追い詰めた一揆の力
1570年9月、大坂の本願寺(石山本願寺)が信長に対して蜂起を呼びかけると、これに応じた伊勢の一揆勢が激しい抵抗を開始しました。
- 信長への打撃: 11月には信長の弟・織田信興が自害に追い込まれ、翌年5月には家臣の氏家卜全が戦死するなど、織田軍は度重なる苦戦を強いられました。
- 長期化する戦い: 1573年9月にも織田信長の出撃がありましたが、湿地帯という地形を活かした一揆勢の抵抗により、攻略は容易ではありませんでした。
2. 1574年、完全包囲と海上封鎖
信長(当時41歳)は、これまでの失態を挽回すべく、1574年6月23日に三度目の大攻勢を仕掛けます。
- 九鬼嘉隆の投入: 志摩の九鬼嘉隆率いる水軍が動員されました。巨大な安宅船を用いた海上封鎖により、兵糧の供給路を完全に断たれた一揆勢は極限状態まで追い込まれたのです。
- 砦の陥落: 一揆勢は5ヶ所の拠点(大鳥居、篠橋、長島、屋長島、中江)に立てこもりましたが、8月2日には大鳥居が陥落。大鉄砲を用いた猛攻により、逃げ出そうとした1000人が斬り殺されたといいます。
3. 9月29日、悲劇の結末
包囲から3か月以上が経過し、飢餓に苦しむ一揆勢はついに降伏を申し出ました。
- 偽りの和議: 9月29日、一揆勢は舟で長島を離れ、大坂の本願寺へ逃れようとしました。しかし信長はこれを許さず、一斉に攻撃を仕掛けます。
- 一門の戦死と復讐: 追い詰められた一揆勢の一部(700~800人余り)が織田の本陣へ捨て身の突撃を行い、信長の一門衆の多くが戦死しました。
- 2万人の処刑: これに激昂した信長は、残された屋長島と中江の砦を幾重もの柵で囲い込み、周囲から火をかけて殺されたのです。老若男女問わず、2万人もの命が焼き殺されたと記録されています。
4. この戦いの歴史的意味
長島一向一揆の壊滅は、中世的な宗教勢力の抵抗を武力で完全に沈黙させた象徴的な事件でした。この残酷なまでの徹底抗戦と処刑は、後の各地における一向一揆への強力な見せしめとなりました。





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