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戦国武将織田信長

織田信長×上杉謙信「幻の東西挟撃」|1572年、岐阜城で交わされた血判起請文とマントの誓い

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1572年(元亀3年)11月20日。美濃・岐阜城の門を叩いた一人の男がいました。上杉謙信の使者、**長景連(ちょう かげつら)**です。

彼が携えていたのは、最強の軍神・上杉謙信からの「共闘」の意志。これに対し信長は、自らの指を切り、血で印を押した**「血判起請文」**を謙信へ送り返しました。戦国史を塗り替えたかもしれない「濃越同盟(のうえつどうめい)」の全貌を紐解きます。


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1. 8年にわたる「遠距離外交」の伏線

信長と謙信の同盟は、一日にして成らずでした。その歴史は1560年代まで遡ります。

  • 1564年(永禄7年)11月: 両者は最初の誓書を交換。
  • 信長の子を養子へ: 信長は自分の子(のちの織田信房)を謙信の養子に差し出す約束をし、謙信とのパイプを固めました。

当時の信長にとって、背後の謙信を味方につけることは、天下布武を成し遂げるための絶対条件だったのです。


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2. 武田信玄という「共通の敵」と二股外交

1560年代後半、信長は絶妙なバランス外交を展開します。

  • 1565年(永禄11月): 信長の養女と武田勝頼の婚姻を成立させ、信玄とも同盟。
  • 狙い: 上杉・武田の両巨頭を外交で縛り付け、自らは京都への奉洛(足利義昭を奉じての上洛)に専念するためでした。

しかし、信長が京都で勢力を強めると、浅井・朝倉本願寺による「信長包囲網」が形成されます。これに呼応した武田信玄が、ついに信長との同盟を破棄しました。


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3. 1572年11月:岐阜城での劇的な同盟成立

武田信玄が**「西上作戦」を開始し、遠江や東美濃**を蹂躙。徳川家康が三方ヶ原で絶望的な状況に陥る中、謙信は使者・長景連を岐阜城へ送り込みます。

究極の軍事公約:東西挟撃作戦

1572年11月20日、信長は謙信の誠意に応え、相互援助を誓う血判起請文を作成しました。

  • 作戦: 信長が西から、謙信が東(信濃・甲斐)から武田領を攻める**「東西挟撃」**。
  • 信頼の証: 信長はこの時、謙信に豪華な**マント(狩衣)**を贈りました。このマントは、信長が謙信を「唯一対等なパートナー」と認めた証でもありました。

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4. わずか3年で破綻した「最強タッグ」の末路

歴史を変えるはずだったこの同盟は、皮肉な運命によって引き裂かれます。

  • 1573年:武田信玄の急死。 最強の敵がいなくなったことで、二人が手を組む最大の理由が消失しました。
  • 1576年:同盟破棄と「第二次信長包囲網」。 信長が加賀・越前(謙信の勢力圏)へ進出したことで利害が対立。足利義昭の工作もあり、謙信は本願寺と和睦して信長に反旗を翻します。

「3年」という短い期間で、マントに込められた誓いは空しく散り、両者は手取川の戦いという直接対決へと突き進んでいくことになります。


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結論:もし信玄が生き永らえていたら?

信長と謙信の同盟が機能し、長景連が持ち帰った血判の通りに「東西挟撃」が実行されていたら、武田家は1570年代半ばには消滅し、上杉・織田による二極体制が生まれていたかもしれません。

信長が謙信に贈ったマントは、今も上杉神社に保管されています。それは、戦国最強の二人が確かに**「武田を潰して天下を平定する」**という同じ夢を見た、数少ない証拠なのです。

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