13世紀といえば、
日本でも名実ともに
武士の時代になった頃、
ヨーロッパでも
イングランドとフランスでも、
御恩と奉公ではなく、
騎士団としての
忠誠心が試される時代に。
中世ヨーロッパの封建社会のはじまり
13世紀には、
あらゆるヨーロッパは、
王権は広い範囲の支持基盤を、
確実に保持するために、
議会政治をはじめました。
これらの代表体は、
国王が臨時に
貴族や聖職者に呼びかけた
会議から成長して、
次第に国王の
主要な先生の
公の会議になりました。
宗教者と
貴族と
庶民という
3身分の代表を含みました。
これを身分制議会といいます。
都市住民が定期的に
参加するようになると、
国王は宗教者と貴族と庶民に
依存するようになった。
イングランドの背景-プランタジネット朝の創始-
日本では、
保元の乱や平治の乱で、
源平の盛衰があった頃である
12世紀半ば頃までに、
イングランドの行政政府は、
ヨーロッパで
1番最先端の
行政政府となりました。
ウィリアム征服王の息子である
ヘンリ1世(在位1100年~1135年)が、
男子の後継者を
残さず亡くなってしまった。
そうして、
イングランドでも、
内乱状態になりました。
一方の勢力は、
ヘンリの娘マティルダを支持。
もう一方の勢力は、
ヘンリの妹
アデラの息子
スティーヴンを支持して、
イングランドでも
内乱状態になりました。
多くのイングランド人は、
女性に統治されるよりは、
男性であるスティーヴンに
統治されることを望んだが、
内乱の結果、
スティーヴンの
王族の権威は没落。
スティーヴンはマティルダの息子で
フランスのアンジュー伯である
ヘンリ(アンリ)を自身の後継者に指名した。
こうしてスティーヴンの死後、
ヘンリ2世として即位します。
ヘンリ2世は、
1154年~1189年まで、
君臨する王様になります。
ヘンリ2世のイングランド王朝の血脈を、
プランタジネット朝といいます。
ヘンリ2世の裁判制度
ヘンリ2世は、
即位後ただちに貴族を手に入れて、
裁判制度を広く整備することで、
王の力を強くしました。
それまでの裁判制度は、
シュメールの
ハンムラビ法典に基づいており、
裁判制度は、
当事者の宣誓と、
それを証明する裁判決闘が
普通でした。
ヘンリ2世は異端審問制度を導入して、
国王は自ら裁判官になり、
イングランド各地に、
王の道にのっとって、
ヘンリ2世はサトラップになりました。
王の目や王の耳で
各地を巡察した訳ですよ。
そうして、
各地で巡回裁判が
王自らの力で行われ、
殺人や放火は、
国王の平和の侵害と宣言され、
管轄を問わず、
裁判にかけられました。
騎士階級以上の
自由民(現代で言う社長や自営業者)は、
男女の相続や
嫁姑問題や
お金を借りてない貸したなどの
今で言う
家庭裁判所のような問題も、
一定の社会階級以上では
行われて、
今で言うサラリーマン(奴隷階級)には、
裁判は実施されることは
ありませんでした。
国王裁判と「コモン・ロー」
国王裁判を通じて、
イングランド全土に
もたらされた
新しい法体系は、
コモン・ロー(Common Law/普通法)と
呼ばれました。
コモン・ローの
効率性・スピード・包括性は、
当時のヨーロッパには
前例が無いものでした。
ヘンリ2世は
地域の事件に直接介入し、
国王権力をさらに
制度化するために
文書記録を作成しました。
政治的権力者国王と宗教的権力者大司教の対立
日本では当時は、
天皇は政治も宗教も両方握る
絶対的権力者で院政を行っていた頃、
ヘンリ2世は、
コモン・ローの法体系とは
違う法体系を持つ
国王法廷への服属をだが拒否する
教会たち宗教勢力からは
激しい抵抗を受けました。
ヘンリ2世と大司教トマス・ベケットの間の、
大いなる国王裁判権に対する紛争は、
12世紀の間の教会と国家の大きな争いとなりました。
ベケット卿が自身の大聖堂で、
ヘンリ2世の部下によって
殺されて殉教しました。
殺しても恨みを買うだけで、
教会勢力からは、
ヘンリ2世は避難されて贖罪された。
このようにヘンリ2世は
イングランドでは
権力を行使できたが、
外交面においては、
フランスはイングランドにとっては、
お兄様の国で、
フランスの封臣イングランドだったため、
権力を維持するためには、
戦争か交渉かしかなかった。
また、ヘンリ2世が年老いた頃は、
自身の息子たちが
フランス王の支持のもとに起こした
反乱に苦しめられることになります。






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