11世紀の
グレゴリウスの改革以降、
聖職者への課税を巡って、
フランス王フィリップ4世と
対立していた
ローマ教皇陣営。
ローマ教皇ケレスティヌス5世の即位と退位
1294年、ローマ教皇として、
新教皇
ケレスティヌス5世が即位。
ケレスティヌス5世は、
イタリア中東部の州である
アブルッツィ出身の
極めて経験な隠修士だった。
しかし、
ケレスティヌス5世は、
現実感覚に欠けていた
理想主義者だったので、
フランスの枢機卿が退位させた。
ローマ教皇・ボニファティウス8世
ガエタニ枢機卿は、
ローマ教皇
ボニファティウス8世
として即位。
ボニファティウス8世は、
戦闘的な野心家で、
教皇権を強固にしたいと考えた。
神と教会との直接的繋がりを
象徴する
完全なる教皇権を主張。
ローマ教皇
ボニファティウス8世は、
教皇令「ウナム=サンクタム」を出して、
すべての人間が
教皇に服従すべきだと、
教皇は主張しました。
つまり、
ボニファティウス8世は
キリスト教徒は
たとえ君主であっても
ローマ教皇に従えと
主張しました。
1303年9月、
フィリップ4世端麗王
(在位1285年-1314年)は
部下にローマの東の50kmの街
アナーニに滞在中の
ボニファティウスを
捕縛させました。
そしてボニファティウスは
その傷が原因でまもなく死亡。
これをアナーニ事件といいます。
救出されたボニファティウスはまもなく死亡。
続く2人の教皇は
すぐにフランス王フィリップの罪を許しました。
ボニファティウスの苦境は、
普遍的な教会の権威が
強大な君主国に対して
劣勢であることを示しました。
アヴィニョン教皇庁
1309年に教皇庁は、
ローマの混乱を大きく避けて、
当時のフランス王国に隣接する都市であることを
アヴィニョンに定着しました。
これをアヴィニョン教皇庁といいます。

戦争、病気
そしてアヴィニョンの教皇への
不満によって起こされた
教会の危機は、
ヨーロッパの
スピリチュアル・ライフ
すなわち霊的生活に
大きく影響しました。
1309年に教皇庁が
ローマからアヴィニョンに
移動したことは、
とくにイタリアで
反発を引き起こしました。
パドヴァのマルシリオ(聖職者)や、
オッカムのウィリアムのような
教皇権への批判者たちは、
出家した人もしてない人が
集まって教会を形成して、
権力を握ると主張しました。
これを人民主権説といいます。
これらの批判を受け、
1377年に教皇グレゴリウス11世は、
アヴィニョンを離れて、
ローマに帰還しました。
教会大分裂
しかし、
1378年の
グレゴリウス11世の死去に伴う、
教皇選挙の際には、
イタリア人の選出を主張する
ローマの民衆が
暴動を起こしました。
そのため、
枢機卿たちは、
イタリア人の
ウルバヌス6世を
教皇に選出。
ウルバヌスは教皇に選出された
フランス人の教皇クレメンス7世は、
教皇庁をアヴィニョンに戻しました。
ここにローマと
アヴィニョンに
2人の教皇が並列する
大シスマ(教皇大分裂1378~1417年)が
始まった。



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