自然災害の連発と、
政治的無能&無策は、
1315年~1322年の
北ヨーロッパに
深刻な飢饉をもたらしました。
豪雨は作物を破壊し、
家畜は死に絶え、
食糧の値段は上昇し、
そのすべてが
飢餓・病気・死を
プレゼントしてくれました。
明日はバレンタインですが、
みなさんには死のプレゼントが
ないことを祈ってますが、
誰かは死ぬでしょう。冬だし。
農民と貧しい都市住民が
激しいインフレーションは
物質不足に対して、
大打撃を受けました。
しかし、
一方で、
富裕な領主、教会、商人は
蓄えていた食糧を売却し、
利益をたくさん得ました。
都市と農村で、
この物価高で、
両方で人口の
10%が減りました。
この人口減少で労働力の損失と、
生産力の減少を招きました。
教会勢力は飢饉は、
人間の信仰が足りないからだと、
これは人間の罪に対する神の罰とし、
聖職者は祈りで対応し、
人々に罪への許しを求めました。
より現実的な教会勢力の対応としては、
慈善活動を行う
修道院による食糧提供、
国王による高利貸しの統制の試み、
ポーランドへの住民の移動や
都市の慈善政策などがあった。
大飢饉の社会的原因は、
10~12世紀間の
急激な人口上昇だった。
小規模な不作でも
食糧の分配は大混乱した。
大飢饉の結果は破滅的だった。
災厄の政治的な原因は、
戦争であります。
戦場となった地域では、
農業をすることが困難になり、
農業従事者は戦争に取られて、
農業への補助金は戦争に取られて、
経済が大混乱しました。
政治指導者は重税を国民に課して、
糧食となる穀物を強制的に強奪し、
政治的災害により、
大飢饉はむしろ加速されました。
フランスでは、
重税に抵抗する商人や農民が、
国王の城や役人を襲撃。
ユダヤ人などはもちろん殺された。
黒死病(ペスト)の流行
しかも、
飢饉に追い討ちをかけるように、
流行ったのが、
ペスト菌由来の黒死病(Black Death)です。
黒死病は当時の社会を根底から覆した。
ペストは1346年に
黒海とカスピ海の近くで発生し、
保菌しているノミに寄生された
ネズミとともに商船でヨーロッパへと自らの
どんどん押し寄せた。
1348年までにこの黒死病は、
アラゴンやイタリア全域、
バルカン半島、フランスの大部分に拡散。
ドイツ・イングランド・スカンディナビアへ進み、
1351年までにはロシアへぶじ到着❤。
この疫病は14世紀中には10年~12年置きに再流行を繰り返し、
18世紀まで続きました。
14世紀の欧州における犠牲者数は、
地域によってまちまちであるが、
人口のおよそ3分の1から2分の1が死んだ。
大飢饉後に蔓延したことも、
こんなに犠牲者が出る一因になりました。
鞭打ち苦行者とユダヤ人迫害
法令によって移動を制限し、
全市的な隔離都市を作った都市もあれば、
とくに精肉業者や肉やに対して、
より厳しい衛生のルールを作った都市もあった。
鞭打ち苦行者とよばれる男女の一団は、
疫病が罪深い現世を罰する神の手段であると信じ、
悔い改めよと、
自身の救済を求め、
鞭打ち苦行者たちは、
公衆の面前で血が出るまでは、
自らを鞭打ちました。
ある共同体では、
鞭打ち苦行団一行による、
宗教的情熱が、
ユダヤ人に対する暴力に結びついた。
ユダヤ人迫害は
中央ヨーロッパ・西ヨーロッパ中に広がる為、
多くのユダヤ人共同体は破壊されました。
虐殺から逃れる為、
多くのドイツ系ユダヤ人は
ポーランドへ移住しました。
ポーランドは疫病の発生率が低く、
権力者たちは高額納税者として、
ユダヤ人を歓迎しました。
説教者たちは「死」をテーマにした説法を行い、
死への関心が高まりました。
芸術や文学の関心も「死」についてになり、
「死の舞台」や「死の勝利」と呼ばれ、
外国つの姿や人々の死への過程を描きました。
他方、黒死病は生存者にも
良い機会を与えました。
人口減少の功罪
人口減少は
食料需要減少を同時に意味し、
領主は低い需要を埋め合わせようと、
農業を多角化し、
牧畜業に転換しました。
同時に人口減少は雇用の低下を意味し、
労働者は高い賃金を要求できるようになり、
結果的に生活水準は上がりました。
疫病の時期の後には、
雇用機会が改善し、
若年婚で結婚する者が増えたため、
全体的に出生率が上昇しました。


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