北条時頼は1247年に、
三浦氏を滅ぼしました。
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その後、
北条氏of北条氏である
北条氏の惣領かつ本家本元である、
北条得宗家を中心に独裁体制になっていきます。
北条得宗家とは、
北条義時が徳宗という号だったことから、
徳の字の省略として得が用いられました。
北条得宗家が、
中心になって栄えていきます。
また、
- 名越氏
- 極楽寺氏
- 金沢氏
- 大仏氏
- 阿蘇大宮司氏
- 北畠氏
なども北条得宗家の氏族として知られます。
また、
江馬氏なども、
静岡県によく見られる名字ですが、
北条義時の子孫だと言われています。
北条時宗と北条得宗家
北条時宗が執権となると、
得宗権はますます強化されて、
執権政治だった
- 執権
- 連署
- 評定衆
による合議制は廃止され、
北条一門が連署・評定衆にも就任します。
このようにして、得宗家に権力は集中していきました。
元寇に際しても、
幕府は公家領へも公事徴収権が認められ、
非御家人に対する統制権を強めていきました。
また、
様々な口実で任を解かれ、
西国の守護を大々的に交代して、
名越氏・極楽寺氏・金沢氏・大仏氏らに
変えていった。
北条時宗の時には、
北条氏一門である
御内・御内人と呼ばれた
得宗被官によって行われる
寄合で政務が決められていった。
評定衆は名目的なものになっていった。
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