アッカド王朝の創始者・サルゴンによって、
メソポタミアの都市国家ははじめて統一された。
アッカドのシュメールとの優位性
アッカドはシュメールと異なり、
槍や盾だけではなく、弓を使いました。
シュメールの重装歩兵のファランクス部隊も
まさか上からくるとは思っていなかったのです。
また、アッカド兵は軽装で機動力も高かったのです。
軍編成はアッカドでは、
「5400人の兵士がサルゴン王と食事をしていた」
とあり、常設王直属軍が存在しました。
対するシュメールの軍編成は、
平時では灌漑労働に従事、
戦時に軍役に服する軍事・労働集団が主力でした。
高知県の半農半兵の一領具足に似ていますね。
ナラム・シンの時代
アッカド王朝第4代の王はサルゴン王の孫・ナラム・シンである。
ナラム・シンは四方世界の王(四方の国中の王)を自称。
さらに自らを神と名乗った。
王の神格化の世界初の例である。
ナラム・シンは積極的に遠征を行い、
- 北シリアのエブラ
- 北メソポタミアのルルブム、スバルトゥ
も征服しました。
納税の義務も課した。
ペルシア湾ではマガンを攻め、
戦利品を最高神・エンリルに奉納しまっす。
ナラム・シンのとき、
アッカド王朝は最大版図を達成します。
アッカド王朝の衰退
シャルカリシャルの時代
シュメール・アッカドの支配を維持。
アッカド王朝の地方政権化へ
その次の代から
西はアムル人、
東からエラム人、
グティ人
という異民族が次から次に侵入。
支配下にあったシュメールの諸都市が
離反した分裂時代に突入します。
アッカド王朝は地方政権に縮小しました。
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