この原始時代の日本の様子を知るためには、
言葉として記録に残されていないため、
中国の歴史書を見る必要性があります。
しかし、その歴史書も私的改ざんがだいぶされているため、
信憑性が少し薄いのも事実で、
その文字からどういった状況だったのか、
推測する必要があります。
日本にも
にも見られる神代文字というのがあります。
神代といえば、現在の佐賀県の豪族の名字にも用いられていますね。
龍造寺の主家が神代です。
ただ、まだ信憑性が薄いため、
研究が必要です。
日本人への蔑称「倭人」
弥生時代の日本人への呼び方。中国の史料で、初めて倭人が登場するのは後漢の班固が編集した「漢書」地理志。
「夫れ(それ)楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国と為る。歳時を以て来たり献見すと云ふ。」
楽浪とは紀元前108年に前漢の武帝が置いた朝鮮半島の4郡の1つ。現在の平壌付近にあたる。倭人がそこへ定期的に貢物を運んだようだ。
奴国(なのくに)
范曄(はんよう)が編集した「後漢書」東夷伝によると、紀元後57年(建武中元2年)に奴国の王が使者に朝貢させ、後漢の皇帝・光武帝から印綬を与えられた。江戸時代(1784年・天明4年)に福岡県志賀島で金印が発見された。志賀島は弘安の役での激戦地。現在、金印公園が設備されている。
漢委奴国王と記された。
建武中元二年(57年)、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫(大臣)と称す。倭国の極南界なり。光武賜ふに印綬を以ってす。安帝の永初元年(107年)、倭の国王帥升等、生口(井口、奴隷のこと)百六十人を献じ、請見を願ふ。桓霊の間(2世紀後半)、倭国大いに乱れ、更々相攻伐し、歴年主なし。
『後漢書』東夷伝
金印の一辺は23.5mmで、金の含有率は95%。福岡市博物館蔵。金印の取っ手は蛇で作られている。陰刻で書いてある部分が減っこむように写る。
ただ、中国人は音を漢字に当てはめているため、倭国を倭と表記するのは、
青森県や近畿や四国などの方言で残っている自分のことを「わー」と表現しているものが
残っているという説もある。
当時は字を当てはめているだけなので、
極南界というのは、紀州がいわゆる南海道の果てなので、
和歌山あたりに奴国があったのではないか?
という説もある。
今でも親中派の人は和歌山に多いですから、
中国の威光を当時も借りようとしていたのかもしれません。
この金印も最近流行りのTwitterのデマ画像のように、実は江戸時代に作られたものではないか?という説もある。
よく見ると倭には人偏が無い委です。
注意しましょう。
なので、この金印は伊都国のことではないか?という説もあります。
倭王・帥升(すいしょう)
「後漢書」東夷伝によると、紀元後107年(永初元年)に、外国史上初めて掲載された倭の国王帥升らが生口(せいこう・奴隷)を160人献上。
「倭の国王帥升ら生口百六十人を献じ、請見る願う。」
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