さて、来年の大河ドラマに合わせて
家康の話も進めていきます。
織田信秀の三河・岡崎城攻め
1547年、37歳の織田信秀は、松平忠倫を織田氏に寝返りさせます。
織田信秀は調略がうまかった武将です。
尾張の配下にすぎないのによく寝返りさせています。
織田信秀は尾張の商業地を制してましたから、
当時もお金の力は絶大だったのでしょう。
その松平忠倫に岡崎城攻めをさせます。
織田信秀は無傷ですね。
織田信秀は無傷ですね。
岡崎城主・松平広忠、今川義元に支援要請
岡崎城攻めでピンチの
松平広忠は東の大国である
今川義元に支援を要請します。
今川義元は当時、駿河・遠江の2か国を制している
大大名です。
ただ、石高では平地が多い尾張一国の方が大きいです。
太閤検地の頃も、
駿河国は15万石、
遠江国は25万石に対して、
尾張国は57万石もありました。
地図と国名と石高(1598年時) : 戦国五北条
1518年1542年
三河国は29万石あり、三河がどっちにつくのかは、
尾張の織田氏、駿河の今川氏にとって、
まさにキャスティングボードを握っていました。
当時29歳の今川義元は松平広忠の嫡男・竹千代(後の家康)を
人質に出すことを条件にこれを飲みます。
かくして家康は駿河へ向かいます。
竹千代の駿河へ向かうルート
竹千代は西郡(蒲郡市)から田原へ海路で向かい、
陸路で田原から駿府へ向かう予定でした。
竹千代、織田氏に拉致られる
その西郡から田原ヘ向かい、
織田氏に寝返った田原の領主・戸田康光によって、
竹千代は身柄を拘束されました。
田原戸田氏は渥美半島から知多半島の東岸を領有していた豪族です。
コーエーテクモの信長の野望で出てくることは珍しい武将です。
(知多半島すら無視されてますけどね)
戸田康光は田原から海路で尾張熱田に竹千代を送り、
戸田康光は織田氏から永楽銭1000貫文を受け取ったとされています。
地獄の沙汰も金次第な
ヒャッハーな時代。
それが戦国時代でした。
その後、
竹千代とその年、初陣を飾った織田信長と出会い、
竹千代は8歳まで人質生活を送ります。
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