自由民権運動からの流れ
自由民権運動は、国会開設の約束を取り付けました。
1890年の国会開設に向けて、政党設立の準備にとりかかります。
明治十四年の政変(開拓使官有物払下げ事件・大隈重信の下野・国会開設の勅諭)
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政党の設置
自由党
板垣退助を中心として立志社は自由党を作りました。
国会期成同盟の結成-愛国社は?誰が?いつ?自由民権運動との関係は?目的は?-
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立志社は片岡健吉によって作られましたが、
自由党は板垣退助です。片岡健吉も自由党員です。
自由党はフランス流・急進主義を採用しています。
また、普通選挙を実施すべしと主張しました。
主権在民や一院制を主張しました。
ちなみに機関誌は自由新聞です。
自由新聞は政府の弾圧を受けて1885年に廃刊となります。
1890年に復活しましたが、日の目を見ることはありませんでした。
自由新聞は政府の弾圧を受けて1885年に廃刊となります。
1890年に復活しましたが、日の目を見ることはありませんでした。
さらに自由党のスポンサーは三井財閥です。
立憲改進党
1882年には大隈重信が中心となって、立憲改進党が作られました。
立憲改進党は制限選挙を主張しました。
お金もちの男性エリートだけが選挙に参加したらいいという考えです。
主権在君民と二院制を主張しました。
立憲改進党をスポンサードしたのは、
三菱財閥です。
三菱財閥が支援しているため、機関誌も「郵便報知新聞」となりました。
郵便報知新聞はスポーツ報知として生き残っています。
立憲帝政党
自由党と立憲改進党は民党という、
自由民権運動を代表とする政党になりました。
一方、立憲帝政党は1882年、自由民権運動に対抗するために作られた政党です。
国が主導的に作ったので官吏の政党・吏党と呼ばれます。
保守的御用主義の政党だった立憲帝政党は、
多くの国民の声を聞きたくない訳です。
機関誌は「東京日日新聞」です。
現在の毎日新聞ですね。
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