今現在、トルコで大統領選挙が行われていますね。
若者が鍵になっているということで、
青年トルコ人革命も見ていきましょう。
青年トルコ人革命
1908年、オスマン帝国の政治結社「青年トルコ人」と青年将校であるエンヴァル=パシャらとともに起こしたのが青年トルコ人革命です。
オスマン帝国は瀕死の病人と揶揄されており、
古いオスマン政治から脱却するために
立ち上がったのが「青年トルコ人」です。
青年トルコ人が1908年にサロニカで挙兵し、
民主主義的憲法であったミドハト憲法を復活させて、
第二次立憲政治を成し遂げました。
そこで、スルタンであったアブデュルハミト2世は退位して、
トルコは共和制国家へと移行しました。
しかし、国家の安定が損なわれ、
周辺国のオーストリアハンガリー帝国(エスターライヒ)やブルガリア、ロシアなどが領土的野心を露骨に示し、イタリアがオスマン帝国領北アフリカに進出をしました。
日露戦争の影響
オスマン帝国では、1889年に日本を親善訪問したオスマン帝国海軍の軍艦エルトゥールル号遭難事件で日本人が救出したことから親日的な人が多かった。
1905年の日露戦争での日本の勝利の知らせは、有色人種の間で感激させ、
当時のトルコ人も子どもにトーゴーやノギなどの名前をつけることが流行った。
特に露土戦争やクリミア戦争などで因縁の宿敵だったロシアが敗北したことは、
オスマン帝国の軍人に大いに刺激を与え、
日本の明治維新にならって古い体制を打破して立憲政治を行うことを決意させた。
青年トルコ人革命の波紋
青年トルコ人革命により、君主制は終わりを告げたものの、
リーダーを失ったトルコでは政治が混乱。
周辺国はオスマン帝国を侵略します。
オーストリアハンガリー帝国はオスマン帝国領だったボスニア・ヘルツェゴビナを併合し、
オスマン帝国内の自治領であるブルガリア王国も完全に独立宣言をしました。
また、クレタ島でもオスマン帝国に対して反乱が起き、
ギリシアはクレタ島を併合。
オスマン帝国内のムスリムが多いアルバニアでも反乱が発生した。
青年トルコ人政権
青年トルコ人はパン・オスマン主義を提唱し、
トルコ国内でナショナリズムを高揚させた。
しかし、イタリア=トルコ戦争で敗北し、
現在のチュニジア・リビアであるトリポリ・キレナイカを失った。
1912年の第一次バルカン戦争でもイスタンブールを除くバルカン半島を放棄した。
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