松平広忠の死
1549年3月6日、
のちの徳川家康として知られる
竹千代の父・松平広忠(24歳)が
側近の岩松八弥に殺されてしまいます。
岩松八弥は植村新六郎によって、
討ち取られました。
太原雪斎(崇孚)、岡崎城へ
松平氏は、竹千代を除いて、
なかば断絶状態になりました。
竹千代は織田氏に人質でいますから、
松平氏の当主は空白状態になりました。
そしてそこに入ってきたのは、
今川氏・今川義元の軍師・太原雪斎(崇孚/54歳)でした。
安祥城攻略戦
1549年3月19日、太原雪斎は織田氏が守る三河安祥城を攻めます。
大して準備もせず攻めましたから、そこそこ堅城の安祥城は易易とは陥落しませんでした。
1549年10月に安祥城に再度攻めると今度は陥落。
何事にも準備だけで半年はかかりますね。
織田信秀の長男・織田信広ゲットだぜ
こうして、安祥城を手に入れた今川氏は、
安祥城で織田信秀の長男・織田信広を捕虜としてゲットしました。
松平竹千代・織田信広の捕虜交換
1549年11月9日、織田信秀の長男・織田信広と松平氏の後継者・竹千代の捕虜交換が行われました。
竹千代は2年振りに岡崎城へ帰還します。
竹千代、今度は今川の人質へ
こうして、織田氏から帰ってきた竹千代(のちの徳川家康)は、
つかの間の実家ぐらしのあと、
今川氏の駿府へ移されます。
ここから人質生活は10年間延長します
コメント