明治時代の不平等条約の改正に向けて、
明治の志士たちは働きました。
1871年、岩倉具視を特命全権大使として、
遣外使節団のリーダーとして日本を離れます。
特命全権大使米欧回覧実記
はその遣外使節団の報告書として知られています。
では、見ていきましょう。
岩倉具視遣外使節団
岩倉遣外使節団は、1871年から1872年までの間に行われました。
岩倉具視(朝廷出身)は右大臣として同行しました。
ちなみに外務卿は副島種臣です。
岩倉遣外使節団の目的
- 不平等条約の事前改善交渉
- 先進諸国の制度や文物の視察
この2つが主な目的でした。
ただ、ほとんどの技術はすでに江戸時代から導入されていたため、
やはり明治時代のはじめは、まずは量が必要だ
といった、殖産興業が進められていくことになります。
征韓論の否定は、こういった外国に視察にいった人たちから行われました。
遣外使節団の副使
岩倉具視遣外使節団の副使は、
- 木戸孝允(長州閥)
- 大久保利通(薩摩閥)
- 伊藤博文(長州閥)
- 山口尚芳(佐賀閥)
の4名が副使として派遣されました。
木戸と文芳でも、
伊藤のお焼きでも
なんでもいいので覚えてください。
なぜ1871年??
1871年に新貨条例が制定されました。
欧米列強諸国も通貨制度ができたことでGOサインを出したのですね。
一番長く滞在した国は?
これもよく聞かれることですね。
一番長いのはどこ?みたいなのは
古典の紀貫之の土佐日記でも聞かれますね。
イギリスが122日間でもっとも長かったのです。
イギリスは、薩英戦争以来、明治時代ではもっとも友好的な列強でした。
岩倉遣外使節団と留学生
遣外使節団には約60名の留学生が留学しに行きました。
約60名というのは60という数字には大きな意味があるからですね。
基本的に、男性留学生にスポットライトが当てられることはありません。
女子留学生
女子留学生は全部で5名。
- 津田梅子
- 山川捨松
- 永井繁子
- 上田悌子
- 吉益亮子
特に津田梅子に関しては、2024年新紙幣になるということで、
テストにも頻出の人物になるでしょう。
この前もテレビドラマとして、
2時間で放送されました。
後編もきっとあるのではないか?
みたいな終わり方でした。
米欧回覧実記
久米邦武はこの岩倉遣外使節団の
書記として同行しました。
先程も言いました
「米欧回覧実記」にまとめていった訳ですね。
彼は「神道は祭天の古俗」という論文を発表しました。
岩倉遣外使節団の結果と痛感
1年かけて世界中を回った結果、
内政の重要性を痛感した、岩倉具視や大久保利通、伊藤博文などは、
1873年帰国後、西郷隆盛などの征韓論者と戦うようになります。
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