概要
1527年3月22日に、
阿波国(現在の徳島県)から
三好元長(みよしもとなが)が、
足利義維(あしかがよしつな)と
細川晴元(ほそかわはるもと)を担いで、
8000人の兵を引き連れて
和泉国(いずみのくに・現在の大阪府南部)堺に上陸した事件。
その後、7月13日には、
次期将軍候補としての資格となっている
「従五位下左馬頭」に任命されて、
「堺公方」と呼ばれるようになります。
背景
この出来事の前年である
1526年7月13日。
細川高国政権(ほそかわたかくにせいけん)のもとで、
香西元盛(こうざいもともり)が謀殺される事件が発生します。
香西元盛の兄である
丹波国(たんばのくに/現在の京都府の中部・兵庫県の北東部)の
豪族である波多野稙通(はたのたねみち)や
柳本賢治(やなぎもとけんじ)は
細川高国から離反して、
阿波衆のもとで蜂起を起こしました。
阿波から三好政長らが、
1526年12月15日に
堺に上陸。
そうして、
翌年の1527年2月に大山崎で、
柳本賢治が率いる軍に、
阿波衆は合流します。
2月13日、
桂川で細川高国の軍に勝利します。
細川高国政権の崩壊
細川高国と将軍・足利義晴(あしかがよしはる)は、
翌日に近江国(おうみのくに/現在の滋賀県)の
坂本(さかもと/現在の大津市)へ逃げました。
こうして、細川高国政権は崩壊したのでした。
その後、
2月16日、
柳本・三好らは入京し、
三好元長らの堺上陸が実現しました。
川勝寺口の戦い
1527年10月、
将軍・足利義晴は、
細川高国らの軍勢とともに、
京へ上洛を果たします。
1527年11月29日、
足利義維と合戦が始まります。
しかし、翌年、
1528年1月17日、
六角定頼(ろっかくさだより)の仲介で
和談となりました。
しかし、細川晴元は、細川高国を当主から降ろして、
細川家の家督をつごうと考えていました。
そのため、
交渉が長引いてしまいました。
足利義晴方として、
戦に参陣していた、
朝倉勢をはじめとする諸勢が
帰国してしまいました。
1527年5月14日に
細川高国が近江国坂本へと逃亡し、
1527年5月28日には、
足利義晴も坂本へと逃亡しました。
畿内を事実上征服したのは、
堺公方となりました。
この堺公方は、
1532年6月まで続くこととなります。
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