**丁未の乱(ていびのらん)**は、飛鳥時代の587年(用明天皇2年)に起きた内乱です。別名「丁未の役」「物部守屋の変」「衣摺の戦い」とも呼ばれます。この戦いは、仏教の受容をめぐって対立していた崇仏派の大臣・蘇我馬子と、廃仏派の大連・物部守屋の間で引き起こされました。
この記事では、丁未の乱が起こった原因から決着、そしてその後の日本史への影響までをわかりやすく解説します。
丁未の乱に至る背景
仏教公伝と崇仏・廃仏論争
日本への仏教伝来(538年または552年)をきっかけに、朝廷内では仏教を受容するかどうかで意見が真っ二つに分かれました。 大陸の進んだ文化を取り入れて国を発展させたいとする蘇我稲目(崇仏派)に対し、日本古来の八百万の神々を重んじ、異国の神を入れれば災いが起きると主張したのが物部尾輿(廃仏派)でした。この対立は、彼らの子である蘇我馬子と物部守屋の代にも引き継がれます。
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皇位継承問題と穴穂部皇子の暗殺
宗教論争だけでなく、皇位継承問題も絡んできます。587年に用明天皇が崩御すると、物部守屋は穴穂部皇子(あなほべのみこ)を次期天皇として擁立しようと画策しました。これに対し、蘇我馬子は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を推し、先手を打って587年6月に穴穂部皇子を暗殺します。これにより、物部守屋は強力な後ろ盾を失い、両者の武力衝突は避けられないものとなりました。
丁未の乱の経過
衣摺の戦いと物部軍の強さ
587年7月、蘇我馬子は群臣と謀り、物部守屋討伐軍を派遣します。馬子の軍には、厩戸皇子(聖徳太子)、泊瀬部皇子、竹田皇子などの皇族や諸豪族が加わりました。 迎え撃つ物部守屋は、本拠地である河内国渋川郡の衣摺の館に立て籠もり、稲を積み上げた「稲城」を築いて守りを固めました。物部氏はもともと軍事を司る氏族であったため非常に精強で、守屋自身も朴の木の枝によじ登り、雨のように矢を射かけて大いに奮闘します。蘇我軍はこれに恐れをなし、3度も退却を余儀なくされるほどの苦戦を強いられました。
聖徳太子の戦勝祈願
この劣勢を覆したのが、当時まだ若かった厩戸皇子(聖徳太子)です。皇子は仏法の加護を得ようと、白膠木(ぬるで)を切って四天王の像を作り、戦勝を祈願しました。そして「もし勝利すれば、四天王のための寺を建て、仏法を広める」と誓いました。これに呼応して蘇我馬子も同様に諸天や大神王に寺院建立を誓い、軍を立て直して再び進撃を開始します。
丁未の乱の決着とその後
物部守屋の死と一族の滅亡
激戦の末、蘇我軍の**迹見赤檮(とみのいちい)**が放った矢が、大木に登っていた物部守屋を射落としました。総大将を失った物部軍は総崩れとなり、蘇我軍の攻勢によって守屋の一族は討たれ、ここに物部氏の宗家は滅亡しました。
仏教の本格的な受容
物部氏の滅亡によって廃仏派の勢力が衰え、日本国内での仏教受容が決定的となりました。戦勝祈願の誓い通り、厩戸皇子(聖徳太子)は摂津国に四天王寺を建立し、蘇我馬子も大和国に**飛鳥寺(法興寺)**を建立します。これにより日本独自の仏教美術や建築技術が発展し、飛鳥文化が大きく花開いていくことになります。
蘇我氏の台頭と崇峻天皇の即位・暗殺
丁未の乱に勝利した蘇我馬子は、朝廷における最大の権力者となりました。馬子は自らが推していた泊瀬部皇子を崇峻天皇として即位させますが、のちに天皇と対立するようになり、592年に配下に命じて崇峻天皇を暗殺してしまいます。その後も蘇我氏の絶大な権勢は、645年の「乙巳の変(大化の改新)」で蘇我入鹿が討たれるまで長く続くことになります。
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