サライェヴォ事件
1914年6月28日、
オーストリア皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が、
オーストリアに併合されたボスニア州での軍事演習視察に来ていました。
視察はセルビアの急進的民族主義者を刺激することをかねてより懸念されていました。
セルビア首相パシッチも、オーストリア側に警告を出していました。
ボスニア出身青年の暗殺グループが実際に、州都サライェヴォ市内各所に
待機していました。
やがて州都サライェヴォにおいて、
フランツ・フェルディナント夫妻は銃弾の犠牲となりました。
犯人はセルビア系の
反ハプスブルクの民族主義的組織に所属する
暗殺団の19歳の青年プリンツィプでした。
第一次世界大戦の勃発
七月危機と第三次バルカン戦争
ヨーロッパ各国政府は暗殺行為を避難し、
オーストリア帝国政府内でも、
セルビアへの軍事行動への支持が広がりました。
しかし、セルビア支持が予想される
ロシアの介入を阻止するために、ドイツの後ろ盾が必要でした。
ドイツの白紙小切手
7月はじめ、オーストリアの外交大使が、
ドイツ・ベルリンに派遣されました。
ヴィルヘルム2世は、
「ドイツは同盟義務と旧来の友好関係に忠実にオーストリアを支持する」
と、表明しました。
7月7日、ハンガリーのティサ首相を除き、
セルビアへの最後通告には受託不可能な強烈な要求を挿入することで一致しました。
オーストリアはドイツに対して、あくまでもロシアへの牽制を望み、
また、ドイツもオーストリアがバルカン半島のスラブ民族の拠点である
セルビアを支配することはロシアがバルカン半島から手を引くことを望んでいました。
また、ドイツはオーストリアの支配体制の安定化を望んでいました。
オーストリアはドイツの強力な支援のもと、
セルビアに宣戦布告しました。
第1次世界大戦の勃発
7月29日、このままではバルカン半島から影響力を失うとみた、
ロシアはセルビアを支援するため、部分動員令を発動しました。
7月30日、ロシアが総動員令を発動すると、
8月1日、「野蛮なスラヴ人の脅威」からドイツは総動員令をだし、
ロシアに宣戦布告しました。さらに露仏同盟を理由にフランスにも宣戦布告します。
8月3日、ドイツはフランスと開戦し、ベルギーに突如侵攻。
8月4日、国際法に違反するドイツ軍のベルギー侵攻を理由に、
イギリスがドイツに宣戦布告します。
他の列強諸国も、同盟・協商関係にしたがって参戦したので、
同盟国側と協商国側(連合国側)との間で帝国主義戦争が始まりました。
8月24日には日本が日英同盟を理由に参戦しました。
中国におけるドイツの租借地・膠州湾および山東省・青島を攻略し、
11月には、反ロシアのオスマン帝国も同盟国側として参戦しました。
ですので、戦線は東アジアや西アジアにも広がりました。
三国同盟の一員であったイタリアは、
イギリスとのロンドン秘密条約により
連合国側として参戦しました。
こうして、戦線はヨーロッパからアジア・アフリカ・太平洋にまで拡大し、列強の植民地や従属地域から兵士や軍需物資も動員されたので、
この戦争は世界規模となりました。
これを第一次世界大戦といいます。
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