紀元223年頃、筑紫の奴国(なこく)に本拠地を置くイザナギは、いよいよ最大の標的である「出雲王国」を攻めるための下準備に取り掛かります。
真正面から出雲にぶつかるのではなく、まずは背後や周辺の島々を制圧して退路を断ち、外堀を埋めていくという見事な戦略でした。この記事では、イザナギが約2000人の水軍を率いて日本海へ進出し、隠岐、佐渡、そして越前(こしのしま)を次々と占領していった歴史の足跡を詳しく解説します。
第一の標的「隠岐の島(隠岐洲)」の制圧と水若酢命の配置
博多湾を出発したイザナギの軍勢がまず向かったのは、出雲の島根半島から北方約80kmの日本海上に浮かぶ「隠岐の島」でした。知夫里島、西ノ島、中ノ島、島後の4島からなるこの島々は、出雲のまさに「喉元」に位置する重要な拠点です。
当時の隠岐の島は、人口およそ5000人程度(1000戸)の島であり、土着の豪族が動員できる軍勢はわずか100〜200人程度に過ぎませんでした。イザナギ軍は圧倒的な戦力差で隠岐の島へ上陸すると、抵抗する敵軍を瞬く間に撃破し、島全体をあっさりと占領してしまいます。
占領後、イザナギは島後の五箇村に家臣である**水若酢命(みずわかすのみこと:忌部氏の祖)**を配置し、隠岐の島全体の統治を任せました。現在も隠岐の島町五箇に鎮座し、隠岐国一宮として信仰を集める「水若酢神社」は、まさにこの時の水若酢命を祭神として祀ったものです。
北上して「佐渡島(佐渡洲)」へ~羽茂村への上陸と度津神社の謎~
隠岐の島を占領したイザナギの船団は、さらに北陸地方の海上を北上し、「佐渡島」へと至ります。
イザナギが佐渡島のどこに上陸したか、詳細な記録は残されていませんが、おそらく島の最南端である「羽茂(はもち)村」あたりに上陸し、北陸進出の拠点となる簡易な政庁を置いたと考えられます。当時の羽茂村の人口は400〜500人程度で、軍勢も30〜40人程度だったため、ここでも簡単に占領を果たしました。
羽茂村には現在、佐渡国一宮である「度津(わたつ)神社」があり、海の神である「綿津見神(わたつみのかみ)」が祀られています。一説には、この海神こそが海を渡ってやってきたイザナギその人のことを指しているのではないかとも推測されています。
「越の島(高志洲)」の語源と越前への進出
佐渡島に拠点を築いた後、イザナギは船を反転させ、いよいよ本州側の「越の島(こしのしま:越前国・福井県)」へと攻め込みます。
「越(こし)」という地名の本当の意味
日本書紀にはイザナギが「越の島(高志洲)」を占領したと記されていますが、古代韓国語において「コシ」とは**「岬、半島、串、男性の性器」を意味する言葉でした。つまり「越(こし)」とは、日本海側に大きく突き出した巨大な岬、すなわち「能登半島」そのものを指す名称**だったのです。のちにこの能登半島を基準として、都(近畿)に近い方を越前、中心部を越中、北方を越後と呼ぶようになりました。
越前国(福井県)古志地域の一部を占領
当時の越前国(福井県)には、「敦賀地域」「古志地域(現在の武生市・鯖江市付近)」「三国地域」の3つの勢力圏が存在していました。 イザナギの軍勢はこのうちの「古志地域」に進出し、越前岬あたりの2〜3の漁村を占領して橋頭堡としたと考えられます。
まとめ:じわじわと狭まる「出雲包囲網」
隠岐の島を落として出雲の正面を塞ぎ、さらに佐渡から越前へと日本海側の拠点を制圧していく。 イザナギによるこれらの遠征は、一見すると無謀な冒険のように見えますが、その実態は**「出雲王国を完全に孤立させるための、壮大かつ冷徹な包囲網の形成」**でした。
ゆっくりと、しかし着実に進展していくイザナギの軍事戦略。外堀を完全に埋められた出雲王国は、やがて避けられないイザナギの主力軍との直接対決へと引きずり込まれていくことになるのです。

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