19世紀以降、アフリカはどんどん欧米各国に植民地されていきます…
イギリスやフランスやポルトガル、ドイツやイタリアなどの各国に分割されていきました。
今回はイギリスのアフリカ侵略についてみていきます。
イギリスの侵略
エジプト
イギリスは1880年代はじめにエジプトを保護国においてしまいました。
ウラービーの反乱
アフマド・ウラービー大佐を指導者とする
イギリス人のエジプト侵略の中で、「エジプト人のエジプト」を唱えた
アフマド・ウラービー大佐を指導者とする民族運動である
1881年~1882年にウラービーの反乱が発生します。
イギリスの単独出兵で鎮圧され、
エジプトは事実上の保護国となってしまいました。
スーダン
1899年にスーダンを征服。
マフディーの反乱
スーダンで発生したムハンマド=アフマド率いる反乱です。
ムハンマド=アフマドはイスラム教マフディー派であったため、
マフディーの反乱と名付けられました。
この反乱でイギリス側は太平天国の乱で常勝軍団を率いたゴードンを失います。
最終的にはイギリス側の勝利で終わります。
イギリス領ケープ植民地とトランスヴァール共和国とオレンジ自由国
1814年に開かれたウィーン会議で、
ケープ植民地がオランダ領からイギリス領となりました。
ケープ植民地に住んでいた
オランダ人の子孫であるブール人は、
ケープ植民地から北方へ移住しました。
この集団移住をグレート=トレックといいます。
グレート=トレックはアフリカ人との抗争で大変な旅でした。
そしてブール人はトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を建国します。
ブール人
ブール人は主として17世紀に入植したオランダ人農民の子孫ですが、
ユグノーやドイツのカルヴァン派の移民も含まれています。
南アフリカ戦争
ブール人が建国したトランスヴァール共和国とオレンジ自由国。
それらの農業国で19世紀後半に豊富なダイヤモンドと金が発見されました。
当初はありがたがっていましたが、
そのせいで、イギリスに戦争をふっかけられました。
イギリスの植民相・ジョセフ=チェンバレンは、
ダイヤモンドや金欲しさに戦争をしかけます。
そして、イギリスの勝利に終わりました。
なお、この戦争で、少年兵が導入され、
ボーイスカウトの由来となりました。
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