1964年11月、池田勇人首相の病気のために第3次池田内閣は総辞職しました。
これによって、自民党の佐藤栄作(さとうえいさく/1901年~1975年)が内閣を組織しました。
いざなぎ景気
池田内閣の経済矛盾の露呈
池田内閣の高度経済成長によって、
物価・社宅・公害などのさまざまな矛盾が露呈しはじめていました。
関連リンク
https://xn--mprwb863iczq.com/%e6%b1%a0%e7%94%b0%e5%8b%87%e4%ba%ba%e5%86%85%e9%96%a3/
佐藤内閣の「社会開発」と「赤字国債」
佐藤内閣はそれらの解決のために「社会開発」をとなえ、
それらの問題を解決する素振りを見せたが、
1966年(昭和41年)に戦後最初の赤字国債を発行して、
インフレ政策をとり、池田内閣を継承しました。
いざなぎ景気
1966年から1970年(昭和45年)にかけて、
ベトナム特需もあって、
4年半以上にわたる好景気が続きました。
岩戸景気を上回るもので、
「いざなぎ景気」と言われました。
日中覚書貿易
1962年から始まっていたLT貿易、
政経分離主義による準政府間貿易は、
1968年に日中覚書貿易(にっちゅうおぼえがきぼうえき)と名前を変えて
継承しました。
資本主義国中「世界第2位」の経済大国へ
「いざなぎ景気」のもとで、
国民総生産(GNP)は年々15%から19%に及ぶ、
伸張を示しました。
1968年(昭和43年)には、
社会主義圏を除くと、
アメリカについで、世界第2位の
経済大国になりました。
日韓基本条約
佐藤内閣は、池田内閣の「低姿勢」にかわって、
強引な政治を行いました。
第1次佐藤内閣は、
日韓両国民の反対を押し切って、
朴正煕(パク・チョンヒ)政権の大韓民国との間に、
日韓基本条約を締結しました。
1965年(昭和40年)12月に関係国内法とともに
国会で採決を強行して成立させました。
その条約の中で大韓民国を、
「朝鮮にある唯一の合法政府」として認めました。
この条約によって、
韓国には経済援助をすることにしました。
その結果、
現在でも北朝鮮との正式国交はありません。
佐藤栄作、沖縄訪問
1965年に、佐藤栄作が戦後の現職の首相としてははじめて沖縄を訪問します。
そのときに
「沖縄の祖国復帰がなければ、日本の戦後は終わらない」
と佐藤栄作の有名な言葉が飛び出しました。
佐藤・ジョンソン会談と小笠原諸島返還
1967年11月、渡米して、アメリカ大統領・ジョンソンと会談する
佐藤・ジョンソン会談が開かれ、
沖縄返還協定に関する話の他に、
小笠原諸島の返還についての話が出てきました。
そして、小笠原諸島返還を取り決めました。
その佐藤・ジョンソン会談の結果、
1968年、小笠原諸島が返還されることとなりました。
日本は小笠原諸島返還の見返りに、
ベトナム戦争に協力する姿勢を示し、
1968年1月、アメリカ原子力航空母艦エンタープライズ号の
佐世保入港を許しました。
原子力潜水艦の日本寄港は、
1964年11月に初めて行われたが、
佐藤内閣のもとで恒常化していきました。
佐藤・ニクソン会談~日米安保自動延長と沖縄返還~
1969年(昭和44年)11月、アメリカのニクソン大統領と佐藤栄作が会談し、
新日米安全保障条約の自動延長と沖縄返還についての話し合いがなされました。
佐藤首相は3度目の訪米の最中に交渉成立させました。
「核ぬき、本土なみ」
沖縄返還にあたって、
「核ぬき、本土なみ」という条件をつけて、
返還約束を取り付けました。
「本土なみ」というのは、
本土と同じように核兵器を持ち込まないという意味です。
日米新安全保障条約、自動延長
1960年(昭和35年)に自然成立していた日米新安全保障条約の期限終了は迫っていました。
終了期限は10年で1970年には切れてしまいます。
帰国した佐藤首相は衆議院を解散し、第32回総選挙を行って、
1970年1月に第3次佐藤内閣を成立させました。
1970年6月、新日米安全保障条約は自動延長によって存続させることにしました。
沖縄返還
1970年11月、沖縄からも国会議員を選出させるための選挙を行い、
1971年6月に沖縄返還協定が調印され、
1972年5月15日、アメリカから沖縄の施政権が返還され、
沖縄復帰が実現し、沖縄県が発足しました。
しかし、返還後の沖縄も「極東の要」としての地位を失ったのではなく、
本土とくらべものとならない広大な米軍基地はそのまま残され、
1968年2月にはじめて飛来した戦略爆撃機B52も頻繁に飛来し、
「本土なみ」は、かえって本土の沖縄化をもたらすのではないかと危惧する声もあった。
コメント